終戦の日が近づくにつれ、毎年、戦争にかかわる報道が増えます。71年前の出来事であり、実際に戦地に赴かれた方は年々少なくなっています。そんな中、本紙が先月初め、和歌山市立博物館が空襲体験者から情報提供を募っていると報じたところ、大勢から連絡がありました。

 本紙は戦後の節目ごとに特集を組み、伝えてきました。50年の時は、実際に戦地を体験した人から直接話を伺うことができました。軍艦から投げ出され、6時間も太平洋を漂流した話を聞いたのを覚えています。ただ、現実の辛い話を聞けることは少なかった。「できれば、触れてほしくない」との思いが伝わってきたのです。

 60年の時は、空襲の記憶として、「あんなにきれいな火は見たことない」と振り返る人がいましたあ。1人でなく、何人も。自分に火の粉が降りかかった人でなく、遠く離れた場所から和歌山城が燃えているところを見た人たちです。皆さん「不謹慎ながら」と言いながら、その時の光景を話してくれました。

 空襲を伝えてゆく活動が続く反面、地元に残る戦争の痕跡について研究する人は多くありません。友ヶ島にあるレンガ造りの砲台跡や弾薬庫などを貴重な史跡として保存を訴える人はいますが、戦争を伝えるためより、建造物としての価値に重きを置く面があります。

 以前、歴史研究に取り組む人から、「第二次世界大戦は、近すぎて歴史としてとらえておらず、研究対象と考えていない」と聞いたことがあります。そんな意識も、戦争の痕跡が系統だって一般に伝わっていない一因かと思います。

 1面で報じた陣地遺構は、知識なしに通っただけでは、たまたまできた穴か、岩が崩れた跡としか見えない場所。ほかにも、完全に薮に覆われて近づけなくなっていたり、開発で跡形もなくなっていたりするところが多々あります。

 遺構をすべて保存するのは到底無理ですが、戦争に関する取材をするたび、当時、どんなことが起きたのか、なぜ、ここに軍事施設を造ろうとしたのか。痕跡だけでも、何とか伝えられないかとの思いが募ります。

 「今からでは遅い」と言ってしまえば、それまで。今できることから、戦争体験、痕跡を少しでも次に伝える。それが、今を生きる私たちの世代の使命であり、その次を担う世代の役割だと思うのです。 (小倉)

(ニュース和歌山2016年8月13日号掲載)