「国民の命と平和な暮らしを守る」。これは安倍晋三首相が繰り返す言葉です。「憲法を守れ!」。今夏、安保法制に反対するため国会前で叫ばれた声です。2つの〝守る〟の攻防はすれ違ったままでした。安保法成立から1カ月が過ぎましたが、2つの〝守る〟は今も避けて通れない論点を含んでいます。

 首相は、米国との強い連携こそ日本を守ると確信しています。しかし、安保法制の適用について国会答弁で二転三転し、最後には「国民の理解を得られていない。これからも丁寧に説明する」と言いながら押し切ってしまいました。参院特別委員会の採決のあり方は言うまでもなく、その後の報道で、政府の集団的自衛権の閣議決定を巡って内閣法制局が検討過程を公文書化していないことが明らかになりました。手荒いです。

 有事に万全を期すのは国を担うものとして当然です。その一方で国民に丁寧に説明し、理解を一つずつ積み重ねることだって〝国民を守る〟ことです。外交において「民主主義という価値観を共有する国々との協調」と首相はよく口にされますが、その価値観を国民と共有できているか。「理解を求める」という台詞と相反する強硬姿勢は、国民を守るより、国家を守る方を上位に置いている証拠であり、民主主義の否定ととられても仕方がありません。

 一方、国会前での「憲法を守れ」の声です。憲法が政治家や公務員をしばる立憲主義の前提からいうと、今回の安保法は違憲になるとの識者らの見解には異論の余地がないと思います。しかし、「9条を守れ」となると話は少し違ってきます。日本の平和は9条があったからこそとの声がありますが、実質はアメリカの軍事力に守られ、アジアに脅威がなかったから保たれました。その実質が変化する中、「9条を守れ」と言うなら、9条を守ったうえでの国家の安全保障って、どういう形なのか、という具体的な構想がないと、かけ声以上の意味をもてません。この点を戦後、ハト派、革新系と呼ばれる人が考えずに来たことが今の一強多弱という政治状況を生み、国の形についてしっかりとした対立軸のある議論をできなくしているのです。

 民主主義も、平和も、国も、命も、いずれをも守りたいと多くの人が願いながら、それぞれを両立できない状況です。私たちはさらに粘り腰で考えを深めねばなりません。 (髙垣)
(ニュース和歌山2015年10月24日号掲載)