近世城下町において、寺院の配置は防御のうえで大切な意味合いがありました。

 寺院は、境内の瓦葺きの建物が頑丈なうえに、石垣や土塀で囲まれているので、有事の際には砦(とりで)になりました。しかも石垣などは、幕府の許可を得ずに、築いたり修復したりできたので、より堅固な造りにすることも可能でした。こうして寺院を多く集め「寺町」を形成することで、城下町の防御壁ができあがったのです。

 浅野期の城下町では、北方に「寺町」が造られていましたが、徳川頼宣入城後の寛永10(1633)年頃、和歌山城の増改築に伴い、多くの寺院を南の吹上町に移しました。以後、元の寺町は「元寺町」と呼ばれ、今日も地名で名残を伝えています。

 同じ頃、東部の和歌川と西部の水軒川を水路で結ぶ計画がたてられました。

 人口の増加で武家屋敷が南に広がり、物資輸送の便宜性と城下町南の防御が必要になってきたからだと思われます。

 しかし、この工事は、神明神社(堀止西二丁目)辺りまで達したとき、幕府の疑念を招き中止になったと伝えられています。その真意はわかりませんが、これが「堀留(のち堀止)」の起こりと言われています。

 城下町の南に掘られたこの水路は、北の堀川(北外堀)に対して「新堀川」(新しい堀川)と呼ばれ、平生は水路として、有事の折は、南を守る外堀となりました。

 もし、この新堀川が、計画通り完成していたなら、和歌山城下町は、北の本町門(北大手門)から南の新堀川まで、堀で囲まれた完全な「総構え」構造(11月4日号連載17参照)が出来上がっていたことになります。

 現在、新堀川は埋め立てられ、面影はありませんが、堀に沿っていた道(いわゆる堀端通り)が、ほぼ直線の車道となって神明神社辺りまで続いています。その道を散策してみてはどうでしょうか。どれだけ大工事だったかを想像する事ができます。

写真=左右に寺院が並ぶ寺町通り

(ニュース和歌山/2017年11月18日更新)