どれだけ堅固に築かれたお城でも、水の確保は欠かせません。その手段が「井戸」です。水が出なければ雨水などを溜めた「溜井戸」にして水を確保しました。その中で最も重要な井戸を「金明水(きんめいすい)」と呼び、その場所を「井戸曲輪」や「水ノ手(曲輪)」と称して厳重に守られていました。

 和歌山城にも「水ノ手」と呼ばれる曲輪があります。天守曲輪北側の埋門(2018年10月20日号掲載「天守・謎の穴蔵・埋門」参照)から北へ下る小径があります。往時は、水ノ手櫓門が建ちはだかり、容易に通れる小径ではありませんでした。その小径を曲がりくねりながら下るとやがて水ノ手に到達します。1813(文化10)年ごろに描かれたとされる「自欠作町到(嘉家作丁より望む)御城之図附遠望御城之図」(和歌山県立図書館蔵)に「黄金水」と記され、すぐ脇に二層の櫓が描かれている場所です。その一角に黄金水跡と思われる円形の穴があります。現在はコンクリートで縁取りされて、井戸の面影はありませんが、その南前方に井戸を監視していた水ノ手櫓台の石垣は残されています。

 黄金水について『大坂城誌』(明治23年刊)に「(豊臣)秀吉がこの井戸(現大阪城小天守台)を掘り、水毒を取るため黄金を多く水底に沈めた」ことに由来する名だとあります。黄金好きの秀吉と結び付けた話と思われますが、和歌山城を最初に築いたのも秀吉ですから、共通する井戸名に秀吉とのかかわりを思わせます。ちなみに大坂城の黄金水は1963(昭和38)年の調査で徳川期の井戸と判明したそうです。

 和歌山城の黄金水は、水ノ手櫓と塀で厳重に囲まれた小曲輪の中にあって、外からは見えない造りでした。その井戸に水が出たのかどうかは、本格的な調査がなされていないので詳細は不明です。おそらく岩盤から湧き出る水を貯めていたのではないかと推測しますが、黄金水跡は、近年の災害などによる倒木が折り重なり、現在、立ち入り禁止となっています。

写真上=黄金水跡と思われる穴(2007年撮影)

(ニュース和歌山/2018年11月3日更新)