県内で死者・行方不明者269人、住宅の全壊969戸、流失325軒と大きな被害が出た1946年の昭和南海地震。この大地震が発生した12月21日を控え、当時、海南市で船大工をしていた川下崇さん(90、写真)に「今でも頭にこびりついている」というあの大災害について聞いた。

海南で経験した川下崇さん

 早朝の午前4時19分、激しい揺れに襲われた時、川下さんは同市冷水の自宅前にいた。逃げようにも、家や石垣がかぶさってくるかのような大きな揺れに四つんばいで進むしかなかった。「予科練から帰ってきたばかりの元気な18歳が立って歩けなかったんです」

 その後、100㍍ほど坂を下りた浜にある仕事場へ向かった。仕事道具を家まで運ぶため、何往復しただろう。ふと海を見ると、湾内の海水がものすごい勢いで引いていく。「水を抜いて空っぽになった池のように、黒江湾の海底が見えた。一番深い海底に漁船があり、そこから漁師2人が逃げて来た。〝泳いで〟ではなく、海底を〝歩いて〟来たんです」

 信じられない光景に驚いていると、今度は津波が襲ってきた。高い場所へと急いだが、川をさかのぼってあふれ出た水が前から来た。水の高さはすねの半分ほどだったものの、全く歩けず、はうように進んだ。ようやく見晴らしの良い場所までたどり着き、湾内を見下ろすと、津波は琴の浦、船尾、黒江、日方、藤白…と海南の街を時計回りに飲み込んでいった。

 その後、同市消防本部長を務めた川下さんは、在職中、そして定年後もこの体験を伝えてきた。「万が一の時、どこに逃げるか、家族で話し合っておくこと。古い家が多い地域は道が通れなくなる。それをふまえ、避難する道は複数、考えておくべき」。さらに「あの時、近所の人が『津波が来るぞ』と言ってくれた。あの言葉がなかったら、もう一度、寝ていたと思う。隣近所と声を掛け合い、お年寄りの手を取って逃げてほしい」。いつ起こるか分からない南海トラフ地震、被害者が出ないことを願っている。

写真=大地震・津波で破壊された日方川の下橋(『海南市政施行70周年記念誌 写真で綴る海南市の歩み』より)

(ニュース和歌山/2018年12月15日更新)