和歌山市本町の百貨店「丸正」(村垣龍一社長)は2月26日、和歌山地裁に自己破産を申請、事実上倒産した。記者会見した村垣社長は「市民に申し訳ない」とわびた。負債総額は昨年8月時点で204億円。 (2001年3月10日号掲載)

改装される前の旧店舗

 明治期に松尾呉服店として創業し、1932年に4階建ての百貨店となった丸正。45年の和歌山大空襲で全焼したが、誰もが親しむ百貨店として再興した。郊外店に対抗するため、90年に135億円を投入し建て替えたが、業績が悪化し自己破産した。市民の心に残る丸正、その最後を振り返る。

育んだ数々の思い出

 空襲で全焼した直後、社員の発案で着色料を使って「イチゴ水」を作り、店もないまま1杯5銭で売り出した。これが焼け跡整理を行う人に受け、復興の一歩になったとの逸話が残る(『激動の紀州昭和史五十年』)。
 終戦8年後、疎開先からぶらくり丁へ戻り、服店を再開した大谷善彦さん(79)は「その頃はもう丸正前で市電から多くの人が降りていた。年末の抽選会も丸正と一緒にやり、にぎわいました」。
 ぶらくり丁に生まれ、60年代に少年時代を過ごした平松博さん(58)は屋上に思いをはせる。「ペットショップ、電車、鯉釣り、おみくじの機械、歪んで映る鏡…近所なので、よく行きました。喫茶室の名物、生クリームたっぷりのフルーツサンドも懐かしい」。ぶらくり丁を扱った創作落語をする桂枝曾丸さん(46)は70年代以降を知る。「地下のたこ焼きにみたらし。グリーンティー、オレンジジュース、コーヒーと飲料が入った瓶が並び、ヒシャクですくって飲む所が印象的でした。5階のおもちゃ売り場で、祖母に電車の模型を買ってもらったのもいい思い出」と話し、「小学生の頃、ファンシーショップが中2階にでき、友達の誕生日にプレゼントを買いましたよ」。
 平松さんは、黒いワンピースを着て喫茶室で忙しく働いていた角谷かなゑさん(故人)の名を口にする。「喫茶室の責任者で、カントクさんと呼ばれていました」。角谷さんは先々代の社長から仕え、90年の改装後も7階フロアに立ち、最後まで明るく客を案内した。「『丸正こそ私の人生』と話されていました。ああいう方がいてこその地方百貨店と思います」

飛び交う商品券 

人でにぎわった頃の売り場

 北ぶらくり丁で呉服店「うえだ屋」を営む上田精一さん(63)は元丸正社員。73年に入社し、2年後、呉服売り場担当になった。元々、呉服店だった丸正は得意客も多く、「七五三、成人式、結婚と着物を着る機会は多く、タンスに着物を入れて嫁入りする方もまだいて、忙しかったが、次第にお客さんは減りました」。
 丸正は90年にリニューアルし、当初は好景気に支えられ、92年は年商185億円を上げた。地下1階に鮮魚店「木村魚喜」を構えた木村利仁さん(65)は「にぎわいがあり、呼び込むと買ってもらえ、売り応えがあった」。しかし、バブル崩壊後、状況は一変する。空きテナントが出始め、経営不安がささやかれ始めた。その後、丸正発行の全国百貨店共通商品券が発行停止となり、噂は駆け巡った。
 丸正の商品券を手にした客は増える一方となった。「レジに商品券が山積みになりました。メーカーが商品を入れないので、売る物がなくなっていきました」と上田さん。木村さんは「休みの火曜に地下にいたら、バレンタインデーが近いのにチョコレートを引きあげにきた会社があった。やばいなと思っていたら、その日は突然来た」。
 最後の日、食堂に社員は集められ、説明を受けた。上田さんは社員のすすり泣きを聞きながら、「本当に続けられないのかとの思いが消えなかった」。一方、木村さんは「テナントには説明がなく、売り上げも戻らなかった。辛い思い出が大半です」。中心市街地が大きく傾き始めた。

◇   ◇ 

 「ニュース和歌山が伝えた半世紀」は毎週土曜号掲載です。

ニュース和歌山2014年9月20日号掲載