中国で開かれていたユネスコの世界遺産委員会蘇州会議で7月1日、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録された。対象は熊野三山、高野山、吉野・大峯と、熊野古道、高野山町石道、大峯奥駆道の巡礼道。県庁で2日、式典が開かれた。(2004年7月10日号より)

中辺路の熊野古道で笑顔を見せる小野田さん(世界遺産登録5周年を控えた2008年末、弊紙正月号企画で訪れた際に撮影)

 「紀伊山地の霊場と参詣道」が国内12番目の世界遺産となったのが04年。その7年前の1997年から登録を夢見て熊野古道を歩き、五感で感じた魅力を盛り込んだ地図を作ったり、熊野をテーマにした学習会を開いたりと、文化的価値を広くアピールしてきた市民グループがある。「『熊野古道』を世界遺産に登録するプロジェクト準備会」。この会の立ち上げを後押ししたのが、弊紙掲載のコラムだった。

弊紙コラムに光

 97年3月、県主催の青年交流セミナーで、和歌山をテーマにしたイベントの企画が課題に出された。参加者からは「熊野古道を世界遺産にしよう」との提案が出た。
 参加者の一人、小野田真弓さん(49)はセミナー後も実現に向け、行政機関へ問い合わせた。「そんなの無理」「熊野古道ってどこ?」。明るい回答はなかった。小野田さんは「当時、世界遺産に登録されていたのは、法隆寺や姫路城など国宝級のものばかり。そもそも道を遺産にする発想がだれにもなかったんです」。
 活動を続けるかどうか悩み始めた同年7月5日、弊紙が目に留まった。和歌山大学名誉教授の小池洋一さん(故人)が「熊野博の成功のために」と題したコラムの中で「熊野古道を世界遺産に」と提唱。「暗闇を歩いていた中で光が見えました」
 そこからの行動は早かった。翌8月に会を立ち上げ、10月に熊野古道を歩き始めた。西口勇知事(故人)が熊野古道に関心を持っていると知ると、早速アプローチ。翌98年2月、熊野聖域への入り口と言われる海南市の藤白坂を一緒に歩き、登録に向けた思いを直接ぶつけた。

平和への祈り込め

 2000年4月、県教委に世界遺産登録推進室が設置された。翌01年には世界遺産暫定リストに掲載され、03年、国際記念物遺跡会議による現地調査を経て、04年7月に登録と、トントン拍子に進んだ。
 この年の11月、弊紙は小池さんと小野田さんの対談を企画。この中で小池さんは「小野田さんたちが取り組みを続けたのは大きいですよ。(中略)世界遺産というと、とんでもなく遠い話だから、みんな『自分とは関係ない』と思ってたんですよ。それをあなた方が実行部隊として広めてくれた」と功績をたたえた。
 まちおこしのきっかけに期待されることが多い世界遺産だが、実は20世紀に起こった2度の世界大戦の反省から生まれた。国家、民族同士の無知が原因で起こる戦争や紛争を防ごうと、多様な文化、多様な考え方を尊重していくために設けられた。和歌山ユネスコ協会元事務局長の江川治邦さん(75)は「心の中に平和の砦を築く。世界遺産は国際理解のための教材なんです」と力を込める。
 登録から10年、今も小野田さんたちは毎月1回、熊野古道を歩く。「まだ登録されていない部分がありますからね。今、世界遺産になった道は世界に6つあり、その一部ではまだ紛争が続く。のんびり安全に世界遺産の道を歩いて世界一周できるようになれば、私の活動も終わりですかね」 
 平和への祈りを込め、きょうも熊野古道を一歩ずつ──。

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ニュース和歌山2014年10月11日号掲載