3月11日の東北太平洋沖地震で、和歌山県内各地に避難勧告、避難指示が出された。避難の動きの鈍さが課題となった一方で、和歌山市片男波地区では約160人と多くの住民が避難した。(2011年3月19日号より)

 2011年3月11日に起きた東日本大震災は死者不明者18517人を出し、福島第1原発の事故を引き起こした。同年9月2日には台風12号の豪雨で、紀南の河川があふれ、土砂で多くの家屋が流され、和歌山、奈良、三重の死者不明者は88人に及んだ。これらの大災害は国民に衝撃を与え、被災地支援や地域防災の取り組みを活発にさせた。3月11日に災害弱者を救った和歌山市片男波地区の取り組みと、被災地のボランティアを応援した「支える人を支えるネットワーク」の動きを追いかける。

命守る〝ご近助〟

アートキューブへ避難した人たち

 和歌山市では3月11日、15000世帯40000人に避難勧告が出された。しかし、避難所を利用した人は2・2%の882人。うち和歌浦地区が650人で、片男波では住民約1000人のうち160人が避難した。
 160人は和歌浦小、和歌の浦アートキューブへ分かれ、歩行困難な高齢者3人を避難所へ導けたのは片男波自治会にとって大きな成果だった。
 「片男波は海に面し高齢者が多い。阪神淡路大震災後、特に防災に力をいれた」と片男波自治会現防災部長の玉置成夫さん(77)。同自治会は2005年に片男波防災会を発足し、翌年に「災害たすけあい登録書」作成に着手した。
 災害時に助けを求める気持ちのある高齢者、障害者を募り、要支援の度合いや障害、家族の状況など万が一の時に必要な情報を届けてもらう。その情報を本人了承のうえ自治会役員や区長らが共有する。救助に走れる人も登録し、災害発生時には登録書に添って救助を行う。
 3月11日もこの仕組みに応じて8人が地域の高齢者宅を回った。民生委員でもある吉田賢二さん(72)は足の不自由な高齢者宅を訪れ、車イスに乗せアートキューブへ向かった。「一人暮らしの方だったので、本当に喜んでくれました」。また、近所で声をかけあい避難所に来る人の姿が目立った。「向こう三軒両隣の大切さを痛感した」と吉田さんは振り返る。
 登録書は年々磨きをかけ、今年は実際に訓練も行った。他県からも「参考にしたい」と視察が絶えない。玉置さんは「個人情報のやりとりも時間をかけ地域交流、信頼関係を築いてきたからできること。飽きず、忘れず、〝ご近助(きんじょ)〟をつくりたい」と意気込む。

支える人育つ

紀南大水害の被災地で活動する和歌山大学の学生

 わかやまNPOセンターの有井安仁さん(38)は2011年4月、「支える人を支えるネットワーク」を立ち上げ、被災地へ向かう人たちをバックアップした。
 「なにかできないか」と集まったメンバーで情報交換する中、「支える基金」を創設した。商店街や事業所など300ヵ所に募金箱を設置、〝支援への支援〟を求めた。集まった基金で、救助犬派遣や福島の子どもの受け入れ、高校生のボランティアバスも実現させた。
 9月の紀南大水害発生後は、メンバーが新宮市熊野川町へ入り、同市災害ボランティアセンターの運営に加わった。地元の高校生が自宅浸水で履き物がなく、動けないとの情報から大量の長靴を運び込んだのが最初だ。
 ボランティアが減り始めると、「1万人プロジェクト」として協力を呼びかけ、一方で現地で活動する団体を後押しできるよう日本財団へ働きかけ、助成金を得た。「先回りして情報と資金ニーズを得て、地元の動きを加速させることを目指しました」と有井さん。
 「支える人」に参加し、
仲間と和大生の支援グループ「フォワード」を結成した酒井豊さん(26)は串本出身。「津波は他人事ではない」との思いから東北へ赴き、岩手県田野畑村でジェラートを開発し、活性化を手伝った。
 紀南大水害後は、田辺市の近露で民家を借り、学生ボランティアの活動拠点をつくった。さらに濁流で汚れた写真を住民から預かり、ノーリツ鋼機と協同で、半年で3万枚を修復。「今でも感謝してくれます」と微笑む。
 忘れられないのが、東北の被災者から紀南へ届いたサンマ300匹で炊き出しをし、たくさんの笑顔に触れたことだ。酒井さんは「東北では逆にぼくらを受け入れてくれ、お世話になった気がした。何か恩返ししたい気持ちが和歌山を支えたいとの思いになりました」。絆は大声で叫ばれずとも静かに根をおろす。

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ニュース和歌山2014年11月29日号掲載