石垣の石は、どこから運ばれて来るのでしょうか。和歌山城を代表する緑色片岩(通称=青石)の場合は、案外近くでその痕跡を見ることができます。

 市民の憩いの場である岡公園一帯が、戦国時代の石切丁場で、切り出した筋状の痕跡が周辺の岩々に残されています。また、公園中程に「御作事所跡」の標柱があります。その隣に、矢穴が残された岩があるのですが、今はフェンスに囲まれて見づらくなっています。

 園内の最高所「弁財天山(天妃山=てんぴさん)」は、切り立った岩山で、和歌山城天守閣を望む格好の展望台です。切り出した岩肌のふもとには池もあって、岩と池を組み合わせた庭園のようですが、採石跡に水が溜まって出来たものと言われています。採石場は、さらに南の道路を隔てた一帯にも広がっていたそうです。

 天守閣の北側にも採石をしたのではないかと思われる岩場があります。秀吉が急いで築城した1585(天正13)年は、この場所から採石をしたのではないかと考えられますが、それを証明する資料はありません。のちに本格的な増改築を進めるにあたり、大量の石を確保するため、身近な岩山を石切丁場と定め、頻繁に採石が行われたのでしょう。岡公園は命がけで岩を割る石工たちの痕跡を伝える風景なのです。

 浅野時代になると、加工しやすい砂岩も使用されます。加太沖の友ヶ島から運ばれたもので、特に痕跡を多く残す「虎島」の岸壁には、岩盤を削り落とした跡と伝えられる斜めに走る幾重もの筋が見られます。また、付近には、矢穴を残した岩や、運ばれることなく現地に残された石があります。

 石の加工技術はさらに進み、徳川時代になると固い花崗片岩が、所々に使用されるようになります。通称熊野石と呼ばれていますが、いまだに切り出した所は明らかでありません。熊野地方の遠路から運ばれてきたから熊野石なのでしょうか。 

写真上=石垣が切り出された岡公園

写真下=友ヶ島の虎島

(ニュース和歌山/2017年8月5日更新)