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万葉の時代から風光明媚な地として人々を魅了してきた和歌浦。歴史の香り漂うこの地に、今、アーティストたちが集い、新しい息吹を吹き込もうとしている。県外から和歌浦に移住し、新たな活動を展開するアーティストを取材した。 |
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新和歌浦に住居兼アトリエを構える佐藤貢さん(32)は、海辺で拾った流木を素材に立体作品の制作に取り組んでいる。「いろんな縁が重なってこの地に流れてきた。ここにひっぱられてきた気がします」
23歳の時、9カ月間、インドやチベットを旅した。大人と子どもが歌を歌いながら楽しげに土木作業をするチベットの人。電車で隣り合わせただけで家族のような親しみを示す中国の人。心に壁のない人々の優しさに触れ感動した。
カルチャーショックは帰国後すぐに来た。大阪で地下鉄に乗っていると、多くの人がいながら、静まりかえっているのが不気味で、都市の静かなざわめきに違和感が極まった。滅入る佐藤さんを、同じアパートにいた尾崎俊哉さんが連れ出した。その先が新和歌浦だった。
5年前から新和歌浦で暮らし始め、3年前に1軒家で家賃1万3000円の“奇跡の物件”に入居。腰を据えた。今は早朝から昼すぎまでアルバイトし、余った時間を制作にあてる。
流木アートを始める前に油絵をやろうかとも迷ったが、オーストラリアの原住民アボリジニの逸話が頭を過ぎった。「アボリジニは手ぶらで砂漠を旅する。必要なものはおのずと向こう側から来るとの考えがある。高い絵の具を買うより、向こうから来る流木を使うことにしたんです」と笑う。
最初は流木で額を作っていたが、次第に額が絵の部分を浸食し、渾然一体となった不思議な作品ができ始めた。現在は紀の川河口に流れ着く建築用の黄色のコンパネが主な素材。昨年はコンパネは小さく円型に切り、煩悩をテーマにして百八つ並べた『煩』を制作。公募展に挑戦し続けている。
「新和歌浦には土地の力を感じる。流木のように僕も流れてきたし、ここに来ないと流木アートはしていなかったと思う」と佐藤さん。「目標はプロですが、今はイメージの赴くまま作品を作って自分を探っています。誰もが自分を知りたいと思っているはずですが、僕にとっては美術がそのやり方のひとつです」とアートへの取り組みは自然だ。 |
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アフリカの民族楽器“ジャンベ”と万葉の景勝地“和歌浦”。一見、関係のないこの2つだが、「接点は雑賀衆の大太鼓ですかね?」。ジャンベ製作と演奏を手がける尾崎俊哉さん(34)は笑顔で語る。
出身は滋賀県。大学卒業後、大阪のライブハウスで働きながら、ライブやフリーマーケットを組み合わせたイベントを企画していた。そのかたわら、インドや東南アジア、アフリカを旅した。苦手のスギ花粉から逃れるため、行くのは決まって春。「海外にもスギはあるかもしれない」と、訪れるのはいつも海沿いの町だった。
「浜辺で満月を見ながらイベントを開けるところはないか」。候補地を探す中、知り合いのバンドマンから和歌浦の噂を聞いた。1993年、初めて新和歌浦へ。プライベートビーチのような砂浜、そのすぐ後方に迫る山――。蓬莱岩にほど近いあじろ浜を見て、「『やったな』と感じました」。直後から浜にあるバグースに居候。2000年まで毎年秋の満月の日、「月の祭」と題したイベントを開いた。
ジャンベと出合ったのは和歌浦へ移った93年。世界リゾート博のプレイベントで、アフリカからジャンベのオーケストラがやってきた。独特の音色にひと“耳”惚れ。まもなく購入し、自己流で製作も始めた。
実は大阪時代、路上パフォーマンスをするストリートミュージシャンや大道芸人の隣で、ビーチサンダルを使って地面を叩いたり、落ちている缶やバケツ、桐の箱を叩いていたことがあった。「打楽器は世界の共通語。最近はテレビゲームにも太鼓があるくらいですから(笑)。衝動に駆られて叩きたくなる。自分の場合、それがたまたまジャンベだった」
和歌浦に根を下ろし、10年あまりが経過。和歌浦で生涯の伴侶と出会い、2人の子どもに恵まれた。最初は耳障りだった波の音も、今は心地よい。「喧噪の中で生きるより自分に合っていた。心穏やかに過ごせる場所はそうない。和歌浦に出合わなければ、いまだにあちこち飛び回っていたかもしれません」
ジャンベが完成すると、音色を試すために必ず足を運ぶ場所がある。和歌浦湾を見渡せる高津子山の中腹だ。
「こちらに来てからよく空を見るようになりました。和歌浦は東の方によく虹が出る。とっても印象的ですよ」 |
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「和歌山の人に出会って、価値観が変わったのかもしれません」。そう振り返る吉田純子さん(32)が、生まれ育った東京から初めて和歌山市に来たのが5年前。たまたまダンスの仕事で声をかけられたのがきっかけだ。
半年ほどで帰京するつもりでいたが、出会いを重ねる中で、「仕事としてできることを考えるとやはりダンスしかない。ここでならダンスでやっていけるかもしれない」との思いを抱いた。いま、和歌浦湾を望むマンションに住み、市内に開いたダンス教室をはじめ、7カ所で140人ほどの生徒を教えている。
中学生のころからモダンダンスに打ち込み、日本女子体育短大の舞踊科へ。そこでソシアルダンスと出合い、卒業後はプロの競技選手として活躍した。だが、22歳の時、カップルの解消とともにプロをやめ、ダンスから離れた生活を送っていた。
「このままでいいのだろうか」という不安とあせりの中、和歌山への誘いが再びダンスへの情熱を思い起こすことに。ダンスでの独り立ちを目標に最初の2、3年はいろんなアルバイトをする日が続いたが、「ひとつひとつの仕事が自分を変える勉強になった」。
東京にいたころは、どちらかといえば進んで人に話しかけるタイプではなく、なかなか自分のカラを破ることができなかった。それが、「和歌山の人はフレンドリーで気軽に話しかけてくれるので入っていきやすかった。受け入れてくれたことで、カッコなんか気にしなくていいのかなと思えるようになりました」。よく笑い、よくしゃべるようになったとほほえむ。
ダンスで生きていく場をつかみ、1年前、「ずっとあこがれていた海の見えるところで暮らす夢」をかなえることができた。ベランダの外に広がる海を眺めていると気持ちが解きほぐされる。「夕焼けがとてもきれい」。東京だと周りに景色がないという。「気分が全然違う」。家の前から続く海沿いの道をスタジオに向かって車を走らせる生活を楽しんでいる。
「ソシアルだけでなく、いろんなジャンルのダンスができる教室を作りたい。食べたり飲んだり、そして踊ったり、みんなが楽しんで過ごせる場があればいいな」。ここでの夢が広がってゆく。 |
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自ら“ニューミュージック系ジャズ”と呼ぶバンド「EDF(地球防衛隊)」のリーダーとして、また、様々なジャンルのミュージシャンと一対一での演奏活動「デュオ」を続ける清水武志さん(40)。和歌浦湾を目の前にのぞむ場所が生活の基盤。「波と風が奏でる音楽を聴きながら」だ。
大阪・藤井寺の出身。大阪芸大を中退後、生野に住み、20年近くプロのジャズピアニストとして活動してきた。だが、隣の和歌山にはそれほどなじみはなかった。転機になったのは、浜の宮のカフェ「カンタ・デル・ソル」でのライブ。
準備をしていた午後2時か3時ごろ。西側に大きく開いた窓から入り込んでくる陽の美しさに、心を奪われた。あまりの感動に、その場で店名をタイトルに曲を作ったほど。
それから和歌山への思いはますます強くなる。移住計画も立てた。だが、生野にも愛着があり、時だけが過ぎてゆく。結果的に和歌山に移ることになったのは2年前。和歌浦湾のすぐ前に住む人との結婚だった。
「心の片隅で夢みていた和歌浦。やはり縁があったのだと思います」
中学生でジャズに目覚め、高校からハードバップに傾倒。だが、20代半ばになり、形のきまったジャズの中で表現を続けることに疑問を抱いた。「自分のスタイルをつくろう」。拠点としていたライブハウスを離れ、ジャンルを超えたセッションを繰り返した。
そんな中、92年に結成したのがEDF。“ニューミュージック系”とは、「ジャズにはいろんな曲やリズム、景色がある」と言うために考えた。「真意は伝わらないが、それでいい」
普段は、楽しみのために音楽は聴かない。「現実が出るので安らげない」からだ。和歌山に越してきてから、さらにその思いを強くした。「波の音が聞こえてくるのに、何で人工の音を聴かないといけないのか」
きれいな景色に囲まれながら、常に美しい響きを追い求める。ただ、ジャズを始めたころ白紙の状態だったのが、いまは固定観念が入る。それを打ち壊し、そして、「どんな音楽をやるのかより、どんな音が作れるか」を考え続ける。そうでないと「自分の存在価値がない」からだ。 |
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