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| 1939年、甲子園史上初めて夏の大会を全試合完封したうえ、準決勝、決勝でノーヒットノーランの偉業を達成した海草中学(現・向陽高校)の嶋清一(せいいち)投手。その足跡を明らかにした書籍が2冊相次いで出版された。和歌山市に住む高校教師、山本暢俊さんが『嶋清一〜戦火に散った伝説の左腕』を、スポーツライターの富永俊治さんが『嶋清一の真実〜松坂大輔をしのぐ伝説左腕の軌跡』を執筆。ベールに包まれていた嶋投手の人柄をはじめ、野球を通した友情、また、戦争に飲み込まれた時代を克明に描いている。 |
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| ◆人柄に迫る書籍 相次ぐ | ||||
嶋投手は海草中1年夏に1塁手で甲子園に初登場し、3年夏からはエースとして夏春5シーズン連続出場。前評判は高く毎回活躍が期待されたが、5年春まではライバルの中京商や平安中に辛酸をなめた。だが、最後の夏、1回戦から決勝まで5試合をすべて完封。しかも、準決勝の島田商、決勝の下関商を連続ノーヒットノーランに抑え込む快投を演じ全国制覇を成し遂げた。その後、明治大学に進学したが、1945年3月、学徒出陣で赴いたベトナム沖で潜水艦に攻撃され、24歳で生涯を閉じる。 ただ、これだけの大記録を打ち立てながら、嶋投手については甲子園大会の折に細切れに紹介される程度だった。 改めて功績が注目されたのは、1998年夏の甲子園決勝で横浜高の松坂大輔投手(現・レッドソックス)が京都成章高戦でノーヒットノーランを達成した時。「59年前に準決勝、決勝の2試合連続で達成した大投手がいた」と報道された。だが、その後も、生涯を克明に記録した書籍は無かった。 ●大投手の弱さに親近感おぼえた 『嶋清一〜戦火に散った伝説の左腕』の山本暢俊さんは、桐蔭高野球部の出身。名前を知る程度だった嶋投手に関心を持ったのは04年6月、野球部のOB会報に出征直前の写真と、それにまつわるエピソードが掲載されたときだ。投稿したのは野球部で1年後輩だったスポーツニッポン新聞社の内田雅也さん。嶋投手と海草中、明大から海軍でも一緒だった古角俊郎さんが前年夏、その写真を甲子園で内田さんに託し、内田さんが記事を書いていた。 写真上から=著書を手にする山本さん、嶋投手出征直前の様子を伝えるスポニチ03年8月の内田さんの記事と、投稿が掲載された04年6月の桐蔭野球部会報 |
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| ●繊細で心優しい人間臭さの虜に | ||||
『嶋清一の真実』は、スポーツライター富永俊治さんが産経新聞社時代、松坂投手のノーヒットノーランを目の当たりにしたのをきっかけに執筆した。実は、子どものころ、野球好きだった父から「戦前の甲子園には、嶋というとてつもないピッチャーがいた」と聞かされており、「伝説の左腕」のイメージはあった。 調査を始め、優勝した夏以外の甲子園は不本意なマウンドの連続だったことを知る。 「なぜ挫折を繰り返したのか」。その疑問を解くため、古角さん、志水捕手らへの取材を通して、恐ろしいほどの快速球の半面で、繊細で人一倍心優しい人物が見えてきた。そんな投手の姿を、試合や練習の様子を詳細に描写することで浮かび上がらせている。 「心根の優しさ……。そんな嶋清一の意外な人間臭さは、その足跡をたどる私を虜にした」とあとがきに記した。 富永さんは「かつてこのような怪腕が存在したことを今の野球ファンに伝える意味からも書籍化しました。来年の野球殿堂(特別表彰)入りの最有力候補でもあり、いまがタイムリーな時期」と話している。 『嶋清一の真実』=四六判、244ページ。1890円。アルマット(03・5966・8427)。 |
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