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父親、祖父、親戚が皆経営者という中で育ち、いきいきと働く姿を見て、自然と「自分も何か事業がしたい」と幼いころから思っていた。加えて、思ったことはすぐに行動に移す性格。高校卒業後、アメリカの大学に留学した。
24歳で帰国後、アメリカで食べた甘いソフトプレッツェルの店を仲間と横浜で始めた。これが当たり、続々と3店舗を首都圏にオープン。休みなく朝4時半から深夜まで働き通しの日々が続いた。心身の疲労が極限に達し、仲間は去っていった。最後は1人になり、2年間で店を閉じることに。その後フリーターをしながら「次に何をしよう」と考えながら過ごしていた。
心から離れないことがあった。悲しい記憶。13歳の時、日航ジャンボ機墜落事故で親戚が6人亡くなった。幼いいとこ、叔父や叔母が突然いなくなった。その喪失感は言葉にならなかった。その叔母がよく話していた。「和歌山でいつか保育園をやりたい」
アメリカで学生をしていた1992年、ヨーロッパを半年ほど1人旅し、ルーマニアに立ち寄った時のこと。人口増加政策を取っていたチャウシェスク独裁政権が89年に打倒され、民主化されたばかりのこの国には、ストリートチルドレンが溢れていた。エイズなど病気も蔓延し、大人に虐げられマンホールの中で子どもが住む現状を目の当たりにし、社会保障制度の整備の必要性を感じた。そして自分には何ができるか考えた。
事業をやるなら、社会が必要とすることをしよう。そう心に誓い、和歌山に帰った。
高齢化社会に向けて、介護保険制度が始まった2000年、300万円の資本金を元に、28歳で介護事業のれもんケアを創業。住んでいたマンションを事務所に、訪問介護や、和歌山で初めての介護タクシーを展開した。
03年には近畿で初めて、株式会社運営の認可保育園を設立。その後も福祉の観点から様々な事業を手がけ、それぞれの会社は急成長した。だが「10個のアイデア中、うまくいくのは2個。思いついたらすぐ行動するが、ダメならすぐにやめる」。くよくよする時間がもったいない。
「以前、お年寄りのための進学塾をやってみましたが、全く人が集まりませんでした」。失敗も明るく笑い飛ばす。
少子化と高齢化社会が進行し、労働人口が減少しつつある現代、今家にいる人に、仕事に戻ってきてもらわないと社会がまわらなくなる。事実、病院では圧倒的に看護士が不足、働き手が欲しい病院側と、働きたくても子どもが小さくて仕事に出られない女性、両方からの声を耳にしていた。双方のニーズに応えるためには・・・。出した答えが病院や企業内に保育スペースを設け、受託運営するというものだった。国が助成金制度を整備し始めたころだった。
最初に受け入れてくれたのは病院だった。個人経営の病院だけでなく、今年(2007年)4月には公立病院内に保育施設をオープンした。県外にも率先して営業に行く。「自分のアイデアであるからには最前線に立たないと」。現在7施設を運営。今年中には10施設になる。
公立の保育園が民営化されていく動きが高まる昨今、運営の受け入れは全国どこでも手を挙げるようにしている。それは自信の表れだ。「子どもたちが大人になった時に、日本に生まれて良かったと思ってくれることがしたい」。冷静沈着なポーカーフェイスの内側に、だれよりもやさしい情熱が見えた。
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