徳川遺産

養珠院の願い 未来へ
妹背山・海禅院

       
 和歌の浦に浮かぶ妹背山の海禅院多宝塔(写真)には紀州徳川初代藩主、頼宣の母の養珠院が庶民とともに人々の平和と幸福を祈った願いがこもる。この妹背山から和歌山の文化を発信しようと「妹背山護持顕彰会」は多宝塔内に埋められていた経石調査をふまえ、徳川期伽藍の復興を計画する。戦後は和歌山市指定文化財となりながら注目を浴びてこなかった海禅院だが、同会の活動に伴い、文化財とし再評価が始まり、国の指定史跡となる可能性も出てきた。同会の松本惠昌会長は「和歌山を愛する心を育てる場として未来につなげたい」と意気込んでいる。
      
 海禅院は頼宣の母、養珠院(お万の方)が徳川家康の33回忌に際し法華経の題目「南無妙法蓮華経」を書写した経石を妹背山に納め小堂を建てたのが始まり。養珠院に賛同した後水尾上皇、庶民も経石を寄せて数は20万個に及んだ。
 養珠院の没後、頼宣が多宝塔を建立し、拝殿・唐門など境内を整備した。江戸時代は養珠寺の末寺とし禄を得ていたが、幕府が滅び禄が絶え窮地に。明治に徳川侯爵家の意向で、紀州徳川家とゆかりの深い報恩寺(和歌山市吹上)が海禅院の管理をすることになった。しかし、海禅院に檀家はなく、1967年に市指定文化財となったが、顧みられることが少なくなった。かつて石灯ろうの再建に尽力した画家の中尾安希さんは「妹背山は和歌浦で最も風光明媚な場所。にもかからわず、和歌山市民でも妹背山を知らない人が多いのは残念」と嘆く。
 2002年、報恩寺執事長・海禅院住職となった松本さんが「妹背山護持顕彰会」を設立、04年に養珠院が埋めた経石調査に乗り出した。旧伽藍復興に向け、海禅院本来の姿を調査で裏付けるのが目的で、ボランティアを募り、約15万個の経石を堀り出した。
 経石調査を担当した前県立博物館長で同会顧問の菅原正明さんは「調査で石箱に刻まれた銘文から、後水尾上皇のかかわりが裏付けられ、徳川家、天皇家、そして庶民がともに身分を超え供養していたことが事実として確認された。封建時代に身分に隔てなく法事を行ったのは日本史上でも希有なこと」。また碑文から家康だけでなく、戦で命を落とした国内のあらゆる人を供養する志があったと判明。さらに経を石や土器など腐らないものに書いている点から、菅原さんは「思いを永遠に伝えようとした姿勢がある」と指摘する。
妹背山・海禅院 妹背山は玉津島神社前の島山で、万葉集にも名前が登場する。中腹には徳川頼宣が1653年に母の養珠院を弔うために建立した多宝塔がある。江戸期には唐門・拝殿、観海閣、三断橋があったが、現在は観海閣、三断橋が残る。多宝塔屋根の軒瓦に葵紋がみられる。
 歴史的な再評価に留まらない。三断橋、和歌山城と同じ石積み、手すりなど建築面から価値が高いことも分かってきた。今年9月には文化庁職員が妹背山を視察。県文化遺産課は妹背山の国指定史跡へのランクアップを視野に入れ、「今は調査を固めている段階。内容が固まったうえで検討してゆきたい」と言う。 
 追い風が吹くなか、同会は江戸期伽藍の復興へ向けスケジュールを組む。その一歩が三断橋を渡った所にある法華経を刻んだ碑を守る経王堂の再建だ。また、妹背山は日本で10番目に低い山であることから、登山証を発行し、ユニークな観光地とする構想もある。
 夏の精霊流しなど妹背山で試みを行う松本会長は「妹背山の歴史の第1期が万葉期、第2期が徳川期なら、これからが第3期」と言う。「経石があるだけでなく、数百年前の石に経をつづった人の思いを想像できる感受性を育てることが大切。伽藍復興に留まらず、いつか平成の経石奉納を行い、世界恒久の幸せを祈りたい。そして和歌山の名前のもとになった和歌浦の魅力を発信したい」。徳川期、庶民とともに平和を祈った養珠院の心を未来につなぐことを心に誓う。

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来年(2008年)は和歌山城天守閣再建50年。今号から毎週土曜号で和歌山に残る徳川家ゆかりの史跡の現在を「徳川遺産」として特集します。