|
|
||||||
|
||||||
江戸時代に築かれた水軒堤防(和歌山市西浜)は全国に例がない高い技術を誇る防潮・防波堤防であることが分かってきた。文献に残り、和歌山県指定文化財でありながら、顧みられることが少なかったが、2005年の道路拡幅工事に伴う発掘調査で、和歌山城の石垣に劣らない美しさ、技術の高さが改めて研究者を驚かせた。県は「国指定の史跡になる可能性は極めて高い」とみる。これを受け、地元からは「近くには養翠園があり、一帯を公園化して、地域の人が憩える場として後世につなげたい」との気運が高まり始めた。 |
||||||
| 『和歌山県史蹟名勝天然記念物調査報告』によると、水軒堤防は、初代藩主、徳川頼宣の寛永年間(1624〜44年)に朝比奈段右衛門が築造した。高さは5・4〜10・8メートル、全長は1・6キロで表面は和泉砂岩、裏には雑賀崎石を使用していると記載がある。 昭和初期には既に砂に埋もれ、「荒天の際に石垣がむき出しになる程度」(県文化遺産課)になっていた。1959年に県指定文化財となったが、昭和30年代に水軒の砂浜が埋め立てられ、顧みられることは少なくなっていた。
県では06年から、3年計画で改めて調査を開始。調査分野は、土木、地理、歴史、石垣など多岐に渡り、06年は南端、07年は北端を発掘し全体の究明を図っている。 これまでの調査によると、堤防は約1キロ、高さは南端部分で4メートル。堤防西側は和泉砂岩、東側は砂岩と緑泥片岩を交互に積む。南端部分の石堤西側面、南側面は切り出した石を立方体に整形し積む「切り込みハギ」の技法を用い、水平に目が走る。勾配は海側となる西側が38度、東側が50度で、背後に土盛りが施されている。県文化遺産課は「経験則で造られたのだろうが、38度は現在の波防用防波堤と変わらない」と舌を巻く。 また、築造年代は『県史蹟名勝天然記念物調査報告』は17世紀前半としているが、17世紀後半から18世紀前半との見方が濃厚になってきた。石川県金沢城調査研究所の北垣聰一郎所長は「一石一石の石面の中央部分を膨らませる加工技術は17世紀後半に地方の城で見ることができるようになる。技術の世界は古いものが後の時代に残るので18世紀前半まで幅をもってみるのが妥当」と指摘。頼宣ではなく、吉宗の時代に近いとの可能性が出てきた。しかし、“謎”は残る。水軒堤防調査委員会委員長を務める水田教授は「堤防の東で、当時、塩田や農地開発が進み、その場所を守る目的があったと思われる。しかし、城と同じ位に立派にした意図は分からない」。北垣所長も「波が下に向かうように造る技術は一級。築かれた理由は興味深く、今後の課題」と話す。 県文化遺産課は「ここまで精緻なものは国内に例がなく、国指定史跡になる可能性は高い。今は価値確定の作業を進めたい」とし、今年には全体の図面を作る計画だ。 水軒堤防の再評価を受け、地域づくりにつなげる動きが活発だ。水軒自治会長の豊田達之さんは「道路拡幅で削る堤防の一部を養翠園近くに移設する計画がある。史跡公園にできる可能性が出てきた」と考える。西浜中学同窓会浜友会の奥津尚宏会長は「地元の団体で連携し、一帯をかつての水軒の浜の美しさを感じられる公園にする会を立ち上げたい。まずは清掃活動から始めたい」と意気込む。史跡の再評価が憩いの場をつくる構想へと膨らみ始めた。 (写真上は堤防南端、下は水軒地区一帯=いずれも県教委提供) ◇ ◇ 和歌山城天守閣再建50年を機に、徳川ゆかりの文化財の現在を毎週土曜日号で特集します。 |
||||||
|
|