徳川遺産

“かわらざる”子への思い
若宮八幡神社

       
 和歌山城の北東、表鬼門にあたる方角に、紀州藩初代藩主の徳川頼宣が社殿を造り、城の守護神とした若宮八幡神社(和歌山市有本)がある。紀の川にほど近いこの神社には、5代藩主の吉宗が奉納した太刀(国重要文化財)が社宝として残されている。また、境内の日吉神社には子授け、安産の願いを込めて奉納された郷土玩具の瓦猿がずらりと並ぶ。素朴で、どこかやさしい表情をした瓦猿たちは、今も昔もかわらぬ母親たちの愛情の深さを教えてくれるようだ。
      
若宮八幡神社 紀の川南岸の堤防近くにある。境内の菩提樹は県指定天然記念物で、高さ約10メートルあり、地上すぐのところで5本の枝に分かれている。
 若宮八幡神社の祭神は応神天皇、仁徳天皇、神功皇后。元々、鎌倉の鶴岡八幡宮のご神体だったが、1439年の永享の乱で同八幡宮が焼かれた際、別当僧がご神体を持って紀州の菟道村(うじむら。現在の宇治地区)へ逃げ、社を建てた。その後、頼宣が1636年に城から見て表鬼門の方角にあたる有本に社殿を造ってご神体を移し、鬼門よけの守護神とした。
 岩橋利茂宮司は「八幡信仰は大分の宇佐八幡宮が始まり。国や城の護(まも)りとして、平安京には石清水八幡宮、鎌倉には鶴岡八幡宮が建てられました」と説明。ただ、必ずしも鬼門の位置に造られたわけではなく、「中国から伝わった鬼門の考え方と、国城の護りが合体したのでは」と見る。
 紀州東照宮創建100年と頼宣没後50年目にあたる1721年には、吉宗が太刀を奉納。備州長船秀光が1386年に作ったもので、国重要文化財に指定されている。現在は東京国立博物館に保管されているが、2004年に社殿を建て替えた際に一時“里帰り”。地域の人たちの注目を集めた。
 1月1日の歳旦祭や10月15日の秋祭など年間を通じて行事は多い。このうちの一つ、7月20日の丑祭りは江戸時代から続く。岩橋宮司によると、しもやけに悩まされた娘を心配した両親が神社を訪れて石を持ち帰り、毎日願いながら磨いていると治ったとの言い伝えが祭りの始まり。今もこの日に願い事をして石を持ち帰り、かなったら翌年、紀の川の河川敷で石を拾って2つにして返す風習が続いている。
 これによく似た話が、境内にある摂社の日吉神社に残っている。こちらは石ではなく瓦猿と呼ばれる郷土玩具、願いごとは子授けと安産だ。
 瓦猿の起源は江戸時代で、和歌山城の東、現在の田中町で作られていた。当時、このあたりは「瓦町」と呼ばれ、多くの瓦職人が住み、屋根瓦作りに従事した。「おそらく職人が空いた時間に、窯の瓦を並べた後の空いたスペースを使って、内職で瓦猿を焼いていたのでしょう」と話すのは、田中町にある野上商店の4代目、野上泰司郎さん。
 瓦猿がおなかにやさしく抱く桃は子どもを表す。江戸時代にはすでに子授けと安産のお守りとして知られ、子どもが欲しい女性、妊娠した女性が神社で1体借り受け、無事に出産を終えると1体を購入して2体にし、神社に返していた。時を経た現代もその風習は静かに受け継がれ、毎年10人以上が訪れる。
 昨年(2007年)10月から12月まで紀伊風土記の丘で開かれた特別展「祈りの民具と郷土玩具」で、来館者対象に郷土玩具の人気投票を行ったところ、瓦猿は、皮膚病のお守りとされる瓦丑と合わせて3位に入った。「安産祈願に用いられたという、郷土玩具に託された庶民の願いが共感を呼んだ」と同館は分析する。
 江戸時代に多くの瓦職人が腕をふるっていた田中町だが、今、製造業者はない。野上商店も戦前まで作っていたものの、今は淡路島の窯元に委託し、仕上げの色づけと販売を手がける。野上さんは「瓦猿の風習を絶やしたくないと、03年に紹介するホームページを息子がつくりました。安産の気持ちはこれからも受け継がれていってほしいですね」。岩橋宮司も「七五三参りの時にお世話になったとお礼を言われることもあります。親の願いはいつの時代も同じなんでしょう」・・・。
 頼宣が城の守護にと設けた神社の境内で、子の誕生を心から願う親の“かわらざる”思いは守られ続けれている。

写真=若宮八幡神社の摂社、日吉神社に並ぶ瓦猿

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 和歌山城天守閣再建50年にちなみ、紀州徳川家ゆかりの史跡の現在を毎週土曜号で特集します。