徳川遺産

移築で残る歴史空間
紀州藩の御殿

       
 藩主幼少時の清遊地、隠居後の住居、藩の政務を取り仕切る場…。江戸時代、和歌山城下には幾多の「御殿」と呼ばれる建物があり、それぞれ異なる役割を果たしていた。しかし、それらの多くは徳川時代の終焉と共に移築され、今なお御三家の風格を伝えるもの、姿を消し顧みられなくなったものなど様々な運命をたどっている。和歌山城管理事務所文化財専門員の高橋克伸さんは「大きな建物なので寺に移築されることが多かった。その価値が地域に認められ残されている」と話している。
      
 和歌山市大垣内にある光恩寺には、和歌山城天守閣東にあった本丸御殿の一部が残されている。江戸時代初期まで藩の政治や行事を行う場として使用されていたが、二の丸の整備が進むにつれ、使われなくなった。
 同寺は1590年に吐前領主の津田監物算正が建て、初代藩主頼宣の教育係を住職の信誉上人が務めたこともあった。明治時代になり、廃城令で取り壊されつつあった本丸御殿だが、同寺が1875年の火災で建物の大半を失ったため、御殿の台所部分を移築し、庫裡とした。
 建物は、入母屋造りで太い柱が使用され、剛健な造りが特徴的。内開きの扉や入口の小ささは城さながらで、江戸時代に和歌山城内にあった建築物で現存するのは岡口門とこの庫裡だけ。現在は寺務所や応接間として利用している。応接間には2メートル近くの大きな杉戸があり、虎と白鳥が片面ずつに描かれている。
 また、現在の住職である江川和樹さんの父、貫裕さんが1996年に「歴史的遺物を後世に伝えたい」と、寺や周辺地域の歴史をまとめた『光恩寺案内記』を製作。和樹さんも2002年に行った屋根の葺き替えの際に奈良から職人を呼び、一枚一枚瓦の状態を確認してもらい、使える瓦はできるだけ残す努力をした。近くの小倉小児童が歴史学習に訪れたり、杉戸絵を見に来る一般客もおり、江川住職は「歴史的価値のある建物なので子や孫の代までできるだけ残していきたい」と話す。
 一方、同市湊御殿にあった湊御殿は、いくつかに分散したが、書院部分は同市鷹匠町の感應寺に移され、建物と天井画(写真右)が保存されている。同寺は、初代藩主頼宣の母、養珠院が和歌山を訪れた際に建築された。明治初期の火災で本堂など全ての建物が焼失したため、御殿の一部を譲り受けた。
 建物は瓦を葺き替えた以外、全て当時の状態を保つ。天井画は紀州藩の絵師、野際白雪が岩絵の具で手がけたと言われる作品。年に1日だけ、秋に一般公開している。8畳間の天井いっぱいに描かれた絵について、見矢龍順住職は「初めて見られた方は驚かれます。色づかいが多様で、クジャクが浮き出る感じがします」。
 和歌山から姿を消し、移築先で輝く御殿もある。頼宣が1649年に建築した岩出御殿は、岩出市清水の岩出小近くにあった。歴代藩主の清遊地や参勤交代の宿泊所として利用されていたが、1917年に神奈川県横浜市の三溪園に移築された。
 岩出御殿は風光明媚な紀の川沿いの御殿山という小山に築かれていた。桂離宮に並ぶ、数奇屋建築を代表する建物で、国の重要文化財に指定されている。水面に張り出した廊下や風が通り抜ける開放的な造りから、夏の別荘として用いられたとみられ、5代藩主吉宗の幼少期に紀の川で遊ぶ風景を描いた屏風が岩出市民俗資料館で展示されている。岩出市の元教師で岩出御殿の歴史を授業で紹介した榎本栄進さんは「建物は地元に残されていませんが、身近な話なので子どもたちは興味を持って聞いてくれた。心の中に御殿を描いてくれたはず」と振り返る。
 このほか、大阪城に移され焼失した紀州御殿、岩出市の根来寺にある名草御殿と湊御殿など、数多くの御殿が移築の歴史をたどっている。高橋さんは、「移築の理由は異なり、姿を消した建物もあるが、残っている建物は歴史空間を現在に提示してくれる貴重な史料。徳川の歴史を伝える重要な役割を担っている」と話している。

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 和歌山城天守閣再建50周年にちなみ、紀州徳川家ゆかりの史跡の現在を土曜号で特集します。