探訪 和歌山城
「城」「郭」の都市計画
其の壱 水島大二・日本城郭史学会委員
 羽柴(のち豊臣)秀吉は、藤堂高虎らを普請奉行に命じ、弟秀長のために自らの縄張り(設計)で、天正13年(1585)3月和歌山築城に着手します。しかし、秀長は大和郡山に在城していたので、桑山重晴が城代として入城し、城の拡張工事を始めます。吹上(虎伏山)の西峰に本丸、同東峰に二ノ丸を置き、北麓の平地に城主屋敷、南麓の平地に岡口枡形(大手口)を設け(『和歌山城史話』)、その東方に町を拓いて、桑山期の和歌山城が誕生します。慶長5年(1600)、重晴に代わって入城した浅野幸長(よしなが)も「城郭を増修し内堀、総堀、石垣等を完成させ、町割りを行ってようやく都会になった」と江戸後期に編纂された『紀伊続風土記』は伝えています。この増修で、大手だった岡口枡形を三ノ丸として、北方の一ノ橋(現・大手門)に大手を移し、寺町(現・元寺町)を形成して和歌山城下町の基礎が完成します。
 元和5年(1619)に入城した徳川頼宣もまた、城郭の大改修を始めます。大手北方の京橋門との間に重臣の屋敷を集めて三ノ丸とし、山上の二ノ丸を北麓に移します。そして、南に接続する岡山を掘り切って城郭を独立させて(三年坂)、「南ノ丸」と「砂ノ丸」を増設し、北方の寺々を南方の地に移します(現・寺町)。その南側に外堀(新堀川)の工事も始めますが、これらの工事があまりにも大規模であったため、幕府より謀反の疑惑がかけられ、途中で工事を中止したと伝えられています(現・堀止)。もし、この工事が完成していたなら、城下南方の物資輸送の水運となるとともに、紀ノ川の流れと嘉家作りに近い地にあった本町門や真田堀川と和歌川が「城」と「城下町」の外側を囲む「総構(そうがま)え」の守りを見ることができたのです。絵図を広げるとその様子がよくわかります。
このように、お城(城郭)とは、他人を近づかせない一定の領有区域である「内郭」と、町や集落の周囲を堀などの防御施設で守備した区域である「外郭」を併せて言うのですが、いつしか「お城」という柔らかな響きが、シンボルの「天守閣」に限定されるイメージへと転じていったようです。

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 和歌山城天守閣再建50年にちなみ、毎週土曜号1面で、水島大二・日本城郭史学会委員が和歌山城の歴史とその構造について紹介します。