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“天才型”でなく“努力型”
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小学3年の時、湯元健一は双子の弟、進一と和歌山県立体育館で開かれているジュニアレスリング教室に通い始めた。インターハイや国体出場経験のある父、鉄矢の影響だった。1年後、鉄矢が初めて練習をのぞいた。2人とも女子選手に投げられていた。同じころ、大会に出場した健一は、全国チャンピオンにこてんぱんにやられた。「いつか倒してやる」。闘争心に火がついた。試合後、父に「やるか」と聞かれた健一は「やる」と答えた。自宅で特訓が始まった。 鉄矢が母校、紀北工業高校から古いマットを譲り受け、自宅2階の6畳間に敷いた。健一は進一と共にタックルや投げ技、防御と毎日みっちり基礎をたたき込まれた。気を抜くと愛のムチが飛んできた。午後5時過ぎに始まる練習が終わるのは「オヤジの気が済んだとき」だった。最高の舞台、五輪出場を夢見ながら、特訓に耐えた。 中学に入ると、和歌山北高校や和歌山工業高校のレスリング部で高校生と一緒に練習をするようになった。和工監督、山路明の第一印象は、“将来、五輪をねらえる逸材”ではなく、「体の小さなレスラー」だった。ただ、「技術的なことを教えると、それができるまで黙々と練習していた」。ひたすら技を磨く姿が焼き付いている。 このころ、運命の出会いが訪れた。アトランタ五輪銅メダリストの太田拓弥が県教委に入った。「強くなるヤツは影でも練習しているぞ」。テレビで見ていたあこがれの選手の言葉が心に響いた。普段の練習メニューに加え、休日も走り込みや筋力トレーニングを自主的に行った。レスリングへの姿勢が変わった。 兄弟で和工に進学。進一は2年、健一は3年の時にインターハイを制した。日々の積み重ねが実を結び始めた。小学校高学年から高校まで指導した現・和歌山北高監督の森下浩は「将来の五輪を見据え、その時その時の目標に向かって、毎日全力で練習していた。他の選手より抜けていたのはその姿勢だった」。“天才型”でなく“努力型”。指導者たちは真摯に取り組む2人をやさしく見守った。 大学は健一が日体大、進一は拓殖大と分かれたが、刺激しあいながら成長した。06年の国体はそろって優勝を果たした。特に健一は2005年の世界選手権に出場するなど、文字通り日本を代表する選手になった。 迎えた07年、いよいよ北京へ向けた戦いが始まった。 (文中敬称略) 写真=レスリングを始めて約1年後の健一 ◇ ◇ 北京五輪に出場する和歌山市出身の湯元健一選手の歩みを8月13日号まで4号連続で紹介します。 |
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