|
|
||
|
||
|
ラストチャンスの重圧
|
||
日体大に進み、頭角を現し始めた湯元健一は日本代表として2007年9月の世界選手権フリースタイル60キロ級に出場した。この大会で3位以内に入れば、北京出場が決まった。結果は初戦敗退。その2年前、05年の世界選手権も初戦で敗れていた。「湯元は世界で勝てない」。外野の声が聞こえてきた。北京五輪出場権は08年3月のアジア選手権、4月の最終予選第1戦、5月の同第2戦の結果次第となった。この3大会に出場する日本代表選手を選ぶ上で重要な意味を持つ07年12月の全日本選手権。決勝で06年世界選手権3位の高塚紀行に敗れた。60キロ級第1候補は高塚に移った。 今年(2008年)3月、韓国でのアジア選手権に出場したのは高塚だった。優勝すれば北京代表に決まる高塚は、元世界王者を破り、勢いに乗って決勝へ駒を進めた。 その知らせは同じ韓国で日体大の合宿に参加していた湯元に届いた。「俺に北京はないのか?」。夢を諦めざるをえない状況に追い込まれた。数時間後、結果が知らされた。高塚は決勝残り1秒で逆転負けを許した。首の皮一枚つながった。 続く4月の最終予選第1戦、出場したのはまたも高塚だった。4位以内で高塚の北京行きが決まったが、初戦で敗れた。湯元にチャンスは残された。 ただ、この時点でフリースタイル60キロ級の出場権を日本はまだ獲得していなかった。伝統的に日本が強い軽量級で、出場すらできない危機。残すは最終予選第2戦のみ。ラストチャンスに日本レスリング協会が選んだのは、湯元だった。 準備はしていた。しかし、大きな重圧がのしかかってきた。この大会で上位4人に入らなければ、自分はもちろん、日本選手は出場すらできなくなる。「恐い…」。眠れない日が続いた。 最後の戦い、プレッシャーと戦いながら、湯元は勝ち進んだ。迎えた準決勝、北朝鮮の選手に第一ピリオドを奪われたが、逆転で勝利した。決勝も勝ち、優勝で花を添えた。「世界で湯元は勝てない」。嫌な声を払拭した。 五輪出場切符は取った。しかし、この切符はまだ湯元のものではなかった。所有者は6月の全日本選抜選手権の結果次第だった。「出場権を取ったのは俺。絶対に俺が北京に行く」。切符をかけ、最後の戦いが始まった。 (文中敬称略) 写真=昨年(2007年)2月、岩出で開かれた大会で子どもたちに技を披露 ◇ ◇ 北京五輪レスリング競技に出場する和歌山市出身の湯元健一選手の歩みを8月2日号から8月13日号まで4回連続で紹介します。 |
||
|
|