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 1100人を超える死者を出した1945年7月9日の和歌山大空襲を語り継ぐ県戦争空襲体験者伝承者の会が設立された。長年、マラソンやウォーキングで交流してきた市民有志が立ち上げた。大空襲をはじめ戦時中の体験を記した手記や史料を集め、後世へ残す。2月11日(木)には初の講演会を企画し、今では読み解くのが難しくなった軍隊手帳について元軍人の男性が語る。同会は「戦争を語るのをやめると、戦争が近づく。体験者が減る中、少しでも当時を知る声を拾いたい」と力を込める。

 毎年7月に紀の川河川敷で開かれている「平和大好きウォーク&マラソン大会」。新日本ス ポーツ連盟県支部の主催で、昨年26回目を数えた。

 昨夏の大会の際、和歌山市の佐藤須磨子さん(85)が自らの空襲体験を集まった人の前で語った。佐藤さんは当時、田辺高等女学校に在籍し、その日は夏休み前で偶然帰省していた。火の粉の中を家族二手に分かれ逃げ、水軒近くの林で夜を明かした。「明け方、黒い雨が降りました」と佐藤さん。「白い御飯をおなかいっぱい食べるのが夢だった」という戦中の厳しい食糧事情を語り、平和の尊さを訴えた。

 子どもを連れた30、40代の世代から強い反応が返ってきた。中には「空襲の怖さを初めて聞いた」と涙ながらに手をとってくる人もいた。主催メンバーは改めて体験を継ぐ大切さにふれ、昨年末の12月8日、日米開戦の日に、佐藤さんを代表に8人のメンバーで会を立ち上げた。

 メンバーで集まり語るうち、忘れていた記憶を思い出した人もいる。大西暢子さん(79)は「B29が雨のように焼い弾を落とし、空が真っ赤になるのを震えながら見ました。神前にいたのですが、翌朝、焼け出され逃げてきた人を、みんなでお寺でお世話をしました。戦後もずっと感謝されたんですよ」と振り返る。

 林美喜子さん(80)は戦地から届いた父の手紙を史料として提供した。手紙には「お正月はおかあさんにどこかにつれていってもらいましたか」「お菓子はありましたか」と家族への気遣いが記され、林さんは「最後まで父がどこにいるか分からないままでした。出征前に白浜へ家族旅行したのが思い出です」と語る。

 一般から戦時中の体験や史料を募り、数々の声が寄せられている。隣組関係の冊子、物品配給切符、空襲の火を消す「消火弾」と戦時中の暮らしに関する史料を一覧表にまとめて提供を申し出る人、フィリピンで戦死した父のことを話したいとの申し出もあった。

 11日の講演会は会員間の何気ない会話から始まった。事務局の林口秀司さん(65)が、戦死した叔父の軍隊手帳を見つけ、メンバーで有田市の上野山馨さん(90)に話した。上野山さんは日本最高齢のフルマラソンランナーとして知られるが、1943年、明治神宮外苑競技場で雨の中開かれた出陣学徒壮行会に参加した歴史の生き証人。「勅諭」「出征時の心得」など手帳の中身も分かる部分が多く、「多くの人の前で話してほしい」と林口さんが求めた。

 上野山さんは「軍人勅諭はあの時代の〝一億一心〟のもと。解説書もなく、こうして今、取り上げるのは珍しいのでは。今の人たちとは学んだ歴史が違い、不安もあるが亡くなった仲間のことをしのびながら、当時に戻って話します」。

 同会では今後、史料集めを進め、冊子にするほか、和歌山大空襲を語り継ぐ史料館建設を求めて運動を展開する。林口さんは「私の祖母も2人の息子を戦争で失い、お坊さんが来るといつも泣いていたのが忘れられない。戦時中の史料を集め、学ぶ場づくりにつなげたい」。佐藤さんは「実際の物を通じて話すことが大切。既に戦争の記憶の風化は始まっている。今伝えるべきことを語っておかねばならないと思う」と話している。

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 平和のために、いま語る戦争中のこと「何がかかれていたのか!軍隊手帳をひも解く」…2月11日(木)午前10時10分、和歌山市市小路の河北コミュニティセンター。無料。林口さん(073・422・0938)。

写真=集まった史料を手に語り合うメンバーたち

(ニュース和歌山2016年2月6日号掲載)