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 明治時代に韓国釜山で財をなした紀の川市出身の事業家、迫間房太郎(1860〜1942)が釜山に残した迫間別邸を記録に残す作業を、田辺市出身の茶人で、武者小路千家家元教授の7代木津宗詮(そうせん)さんが進めている。別邸の大規模な日本建築と庭園を、武者小路千家の3代聿斎(いっさい)が設計したためで、木津さんは「海外にある日本文化財の保存は大きな課題。後世に記録を留めたい」と力を込める。

 迫間房太郎は那賀郡池田村に生まれた。大阪の五百井商店の丁稚(でっち)となり、21歳で同店釜山支店支配人に。その後、迫間商店を設立、貿易や土地経営で富を築き、「釜山の二大資産家」と呼ばれ、現地の公会堂建設など公共事業に多額の寄付をした。

 この迫間の別邸を設計したのが聿斎。聿斎は宮内省で建築を学び、貞明皇后(大正天皇皇后)の大宮御所の茶室秋泉亭や海南市の温山荘、奈良の興福寺静観寮など数多く手がけた。その中でも現存する最古の建築物が迫間別邸だ。

 迫間別邸は、1912年に建築された。敷地約9900平方㍍、建物は約660平方㍍と広く、大きな庭に面した数寄屋建築で、当初は木造平屋建てだったが、皇族の宿泊のため29年に2階建てに改築された。日本から建築資材を持ち込み、日本の大工が手掛けた。海外の日本建築物として他にない規模を誇り、太平洋戦争終結後、アメリカ軍政業務の政庁、その後、韓国副大統領官邸、軍人や高級官僚の料亭として使われ、2000年にレストランとなった。

 木津さんは3代聿斎が迫間別邸を設計していたことを、ある論文で知り、現地を訪問。改築の計画を聞き、7月に建築家や写真家ら20人で現地調査し、記録作業を行った。また、各時代の別邸の写真、資料を収集し、この記録を一冊にまとめ、現代企画室から出版する。

 木津さんは「和歌山でも迫間房太郎を知る人は少ないが、釜山に尽くした人物。建物は植民地統治、アメリカの軍政、南北分断と近現代史の生き証人です。この事実を残したい」と話している。

写真=日本から建築資材を運び造られた迫間別邸

(ニュース和歌山2016年9月17日号掲載)