楽譜が残らず、分からなかった戦前の『和歌山市歌』のメロディが判明した。和歌山市の印南俊夫さん(89)が記憶に留め、ハーモニカで演奏できたのを同市立博物館の太田宏一学芸員が録音。譜面に落とし、同館研究紀要31号で発表した。紀元2600年記念事業として市が歌詞を募集した曲で、国威と合わせて郷土愛を高めた世相が歌詞と旋律に刻まれている。

 和歌山市歌は1922(大正11)年に初めて作られた。その後、約20年の間に2回公募され、新曲が発表された。佐藤春夫作詞、山田耕筰作曲による現在の市歌は55(昭和30)年にできた4代目で、この曲は市のHPから聴けるが、戦前の曲はいずれも楽譜がなく、「音楽関係者、市民でも曲を知り、覚えている人と会ったことがない」(太田学芸員)状況だった。

 メロディが明らかになったのは40(昭和15)年、神武天皇即位から2600年の記念事業で市が歌詞を公募した3代目の市歌。当時、銀行員の初任給が大卒で70円の時代に500円という高額賞金で話題となり、全国から920の応募があった。広尋常小学校(広川町)教員、田辺善一さんの歌詞が一等となり、有田市出身の澤崎定之・東京音楽学校(現東京芸大)教授が曲をつけた。

 歌詞は、和歌山城、日前、名草山、和歌浦と名所を描き、「競ふ雄心かがやかし」「血潮に燃えて恊同の」と戦時色の強い言葉が響く。最後には「伸びに伸びゆく」「力みなぎる」と市を讃える。
 曲を覚えていた印南さんは、和歌山市東鍛冶屋町出身で、40年9月に現在の岡公園にあった市公会堂での発表会で両親と初めて聴いた。当時12歳だった印南さんと家族は、西大工町、東鍛冶屋町の内町西第四区町内会に所属。市から優良表彰を受けるほど活動が盛んな町内会で、集まる度に皆で市歌を歌った。

 印南さんは「この市歌に応募し、佳作になるほど文化活動に熱心な方が町内会におり、その影響でよく歌いました。どこの町内会でも歌っていたと思う」。印南さんは歌を覚えるとハーモニカで演奏できる特技がある。「父と親子で一つのハーモニカを使っていろんな曲を吹きました。演奏できたら忘れません。今も妹に聞かせると、懐かしがってくれます」

 太田学芸員は、別件で会話中、印南さんが市歌を歌えるのを知り、同館で録音、太田一夫元県合唱連盟理事長に採譜を依頼した。和歌山市民合唱団の杉原治さん(83)は「なだらかな緩急がある曲で、最後は行進曲風に雄々しく終わる。唱歌風で歌いやすい、良い曲」。作曲者の澤崎教授は、声楽家で作曲家。東京放送合唱団など数々の合唱団を指導し、文部省唱歌も手掛けた。杉原さんは「さすがです。戦時ならではの表現があるが、和歌山の自然を描いた3番の詞は美しく、今でも通用するのでは」と語る。

 太田学芸員は「短い間に3回も市歌を作ったのは戦争を背景に常に発展を求めた時代の影響」とし、「音楽は譜面がないと忘れられたら終わり。印南さんがハーモニカを演奏でき、楽譜にしやすかった。当時の和歌山を知る手がかりになる」。印南さんは「人前で歌やハーモニカで披露できる機会があればいいですね」と望んでいる。

 楽譜を掲載した紀要については同館(073・423・0003)。

写真=戦前の和歌山市歌のメロディを奏でる印南さん

(ニュース和歌山より。2017年4月8日更新)