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海軍乙種飛行予科練習生を志願したのは1943(昭和18)年、和歌山工業中学3年の時です。学校の軍事教練がきつく、志願者がいないと配属将校が皆にあたるのです。それで「志願するものは?」と聞かれ、つい手をあげたのです。父は大正時代に徴兵検査を受け、抽選で兵隊になれなかったこともあり、役所で願書をとって来て志願を喜んでくれました。私は岩国海軍航空隊での試験に合格し、うれしかったですが、長男の私が戦争に行っても父は何とも思わないのかと複雑でした。 12月1日。壮行会で、私はもらった寄せ書きを身体に巻いて「弟や妹をよろしくお願いします」とあいさつし、万歳の声に送られ和歌山を去り、鹿児島海軍航空隊に入隊しました。しかし、入隊翌日、身体検査で色弱が分かり兵役免除です。ショックを受けて一人和歌山まで汽車で帰ってきました。 夜中、皆、寝静まった中、裏口から家に入り、父に「お父さん帰ってきたよ」と言うと、父は「帰ってきたんか! 良かった! 良かった!」と喜んでくれたのです。涙が出ました。兵役免除になり良かったなんて外では言えない時代です。父も思わず本音が出たのです。 私はその翌年、陸軍特別幹部候補生の試験を親にも学校にも黙って受け合格しました。当時は勤労動員で市駅近くの柴山鉄工で働いていたのですが、前回のこともあり、八戸教育隊入隊が決まっても親以外には内緒にしていたのです。入隊前日、それを知った町内会長が工場へ来て、「明日入隊する人間をいつまで働かせるのだ!」と先生を怒鳴りました。私は和歌浦天満宮に連れられ、武運長久を祈願してもらい、翌日、汽車に乗ったのです。 出発間際でした。級友20人が駅のホームに駆け込んでくる姿が見えたのです。「おーい松井!」と叫び声が聞こえ、私は窓から手をふるだけでした。皆、私の入隊を知り、駅まで走って見送りに来てくれたのです。 終戦は中国で迎え、年末に和歌山へ戻ってきました。運よく生きて帰ってきましたが、いつどこで死んでもおかしくない時代でした。それが私たちの青春でした。 (和歌山市 松井瑛雄) 写真=寄せ書きを手にする松井さん |
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