次代へ継ぐ戦時の記憶
        
この街で戦争があった 和歌山大空襲60年(1) 8月15日、太平洋戦争終結後60年を迎える。それに先立つ7月9日は和歌山市が大空襲に見舞われた日。アメリカ軍B29の落とす焼夷弾が、シンボル和歌山城をはじめ、市中心部を一夜にして焼け野原へと変貌させた。しかし、戦後復興から高度成長期、バブル期を経て、戦争の爪痕を現代に伝える場はかすみ始めている。いま、和歌山城は再建され、何事もなかったようにそびえ立つ。だが、現代人が平和に日々の生活を送るこの場所で、60年前に確かに戦争はあった。その事実を次代へと継承してゆく。

       
石垣に掘られた防空壕
掘られた防空壕
      
 和歌山が初めて空襲に見舞われたのは1942年4月、粉河、岩出への機銃掃射だった。和歌山市は45年1月、いまの和歌山駅付近が爆撃されてから8月14日まで10数回、標的にされた。
 最大の被害を受けたのが、7月9日午後11時半から3時間半にわたる大空襲。B29約50機(100機とも250機とも)が紀の川北部の湊地区から中心部にかけ爆撃を加え、市民の7割が被災し、死者は1200人にのぼったといわれる。
 特に中心部は、和歌山城天守閣が焼け落ちたのを始め、あたり一面が火の海と化し、避難場所となっていた県庁跡(現・汀公園付近)、また、市堀川周辺で多くの人が亡くなった。
 だが、崩れ落ちた和歌山城の真下に、多くの人の命を救った場所がある。石垣に掘られた防空壕だ。二の丸庭園の東、伏虎像の東の角を南に曲がってすぐの石垣に、防空壕の入口があった。
 城の近く、中橋付近に住んでいた東山行男さん(72)は、現在の伏虎中学校の場所にあった番丁国民学校6年生だった。空襲時は紀の川へ避難しようと中橋を越えたが、行く手を火に阻まれた。ほどなく中橋も焼け落ちたため、市堀川に飛び込み、下水管の中に身を隠して生き延びた。
 戦後、石垣に防空壕跡があったことを覚えている。「戦後10年ほどは入口の穴があいたままになっていました」と東山さん。「壕はいくつもあったように思いましたが、いま分かるのは1カ所だけ。ここは木と自然岩の間を掘ったのでしょう。穴をふさぐための石が三角形に積み上げられていますが、他の石垣の積み方と異なり不自然です」
 防空壕については、二の丸庭園東側で飲食店「湖月」を営んでいた柏田直茂さん(76)が覚えている。「私は学徒動員で相生の播磨造船に行っていましたが、和歌山が空襲にあったと聞き、翌日すぐに戻ってきました。母や妹、弟がこの中に入っていて助かりました」
 防空壕は東山さんが指摘するように石垣東側に入口があったが、伏虎像の西にも2カ所入口があった。柏田さんは「壕は東側から西に向かって数10メートル続いており、途中に北側から入れる入口がありました。ここは岩盤ですが、軍が掘ったので、すぐに完成したはず」。
 中は何百人も入れるほど広く、空襲の時はぎゅうぎゅう詰め。「『座れと言われたが、座る場所もなかった』と母親が話していました」
 二の丸には8棟の建物があり、空襲で商品陳列所など7棟が焼け、また、大きな松が熱気で枯れてしまったほど。柏田さんは「幸い、湖月や千鳥、樟守神社は残りました」と振り返る。
 3カ所の入口跡はいずれも石が積み上げられ、通り過ぎるだけでは壕が存在したことに思いが及ばない。だが、確かに60年前、この上で和歌山城が一瞬にして焼け落ち、目の前が火の海と化した中、壕に逃げた数百人が命をながらえた。

写真=防空壕の入口があった場所を指す東山さん)

参考=『和歌山市戦災誌』