探訪 和歌山城
昭和の天守…50年
其の拾 水島大二・日本城郭史学会委員
 和歌山城天守は、かなり遠くからも白く輝いて見ることができます。大天守のみ、大小天守の対、大天守から連なる建物群など様々な方向から色々な形に見えます。この見慣れた風景が、昭和20年(1945年)7月9日深夜の和歌山大空襲で「燃えだして20分ぐらいして、浮かび上がるように燃えていた天守閣が一瞬にして消えてしまった。耐えに耐えたものが一気に崩れ去った」。当時の消防士の証言記事です。その瞬間から国宝天守(其の九参照)が虎伏山上から消え、本丸は天守台だけの淋しい光景に転じてしまったのです。
 それから10余年、戦後の復興と観光地和歌山には天守再建が不可欠として、天守再建へ計画が具体化します。再建に当たっては、木造にすれば将来また文化財になるが、資材集めに費用が倍かかる。鉄筋にすれば火災に強いなどの意見が交錯する中、天守二の門(楠門)のみ木造とし、他は鉄筋コンクリートでの再建と決まります。この計画に文部省は渋い顔をしたと言いますが、過去に火災で天守を失っているだけに、鉄筋造りには説得力があったようです。以後、全国の城で鉄筋による再建が相次いでいきます。
 同31年(1956年)、再建委員会で建築技師の松田茂樹氏が4カ月かけて設計図を仕上げますが、「名城を造るのだから肩書きがあった方がいい」と城郭の専門家で後輩の藤岡通夫氏(東京工業大学教授)に依頼したと言います(本人談)。その再建にあたっては、天守台が不等辺四角形であったので、1層目はおのずとひし形になり、2層目から矩形(四角)となるため外観から見る以上の苦労があったといいます。小天守台に至っては、さらに複雑な地形のため現地で直接指導したそうですが、最も気を遣ったのは、焼失前の写真と見比べて天守の高さが違わないことだったと回想されています。
 同33年(1958年)10月、天守群の外観復元がなり、戦災で失った全国の国宝天守再建第1号となります。それから50年……。街角から見える「徳川遺産・和歌山城」は、四季折々の自然風景に同化した静かな憩いの場となっているその傍らで、防空壕や市電の敷石など歴史を伝える場ともなっています。

写真=虎伏山に外観復元された和歌山城天守群