徳川遺産

芸復活させ、次代に継承
和歌祭

       
 和歌浦東照宮からの神輿おろしに始まり、1000人近くが芸を披露しながら片男波周辺を練り歩く和歌祭。家康の霊を慰めるため江戸初期に始まり、戦後は商工祭の一環として再開した。しかし、和歌浦から離れて開催されたことで、祭の姿は少しずつ変化していく。受け継いできた芸が廃れることを憂いた地元有志が1985年に和歌祭保存会を立ち上げ、99年には会員の子ども世代が青年部を結成した。伝統の祭を守ろうという意識は、確実に次の世代に受け継がれている。

写真=後退しながら渡御する請棒。防御の姿を表現している

      
 和歌祭は、東照宮から御手洗池を回り、片男波にあった御旅所まで行列し、帰りは摺鉦(すりがね)、太鼓、薙刀(なぎなた)振、面被、唐船、雑賀踊、餅搗踊、連尺、母衣など、紀州人の武勇や心意気を表す60以上の芸を披露しながら戻ってくる伝統行事だ。
和歌祭 紀州初代藩主、徳川頼宣が父・家康の霊を慰めるため1622年(元和8年)、前年建立したばかりの和歌浦東照宮を中心に始めた。かつては日本三大祭の1つとして知られ、神輿おろしや神事を含む大祭と、芸を披露するだけの大習しに分かれる。
 東照宮の西川秀紀宮司は、「昔は芸を伝える『株』組織が独立しており、それぞれ弟子に芸を伝えていました」と振り返る。戦前は株を中心に毎年和歌浦で行われ、戦後は商工祭の一環として復活した。
 そんな中、84年を最後に商工祭からはずれることが決まると、「祭を途絶えさせるな」と地元有志が和歌祭保存会を結成。再開に向け活動を始め、90年11月に和歌浦で復活させた。だが、その後は再び商工祭の一環となり、和歌山城周辺で実施されてきた。
 次に動きがあったのは、99年末。和歌浦で開催しないため、「“地元の祭”との意識が薄れ、和歌祭そのものを知らない子どもが増えてきた」こと、「株組織の高齢化で、芸の継承が難しくなってきた」ことを背景に、保存会の子ども世代が青年部を設立。廃れつつある、もしくは既に消えてしまった芸の復活、再生、継承を掲げて動き出した。
 青年部が4グループに分かれて株に弟子入り、渡御時の振りや踊り、道具の使い方、修理法、芸に込められた意味を学んだ。廃れた芸は、写真やフィルム、江戸時代の絵巻を参考に、衣装や飾り付け、踊り、歌の復元に取り組んだ。
 これまでに、『和歌祭』の歌を歌える人を探し出して採譜したのをはじめ、唐船を飾るのぼりや吹き流し、忠棒の振り、舞姫の舞と歌を復元。2年前には50年ぶりに相撲取を復活させた。もちろん、連綿と引き継いできた薙刀振や餅搗踊、母衣などの芸も、途絶えてしまわないよう、地道に練習を続けている。
 保存会の垣内良則事務局長は「自分たちの代でできる限り元の形に戻し、次の世代に伝えるのが第一」ときっぱり。
 実は、祭参加者のアレンジが過ぎるケースもある。例えば、面被のフェイスペインティング。青年部の保井元吾部長は「本来は面を被って練り歩く芸。ペイントが和風ならまだしも、度を超した人もいます。できるだけ昔の形で披露したい」と考えている。
 西川宮司は「原点に戻り、徐々に本来の形になってきています」と目を細める。
 また、青年部は祭のPRにも力を入れる。フォトコンテストを開き、演舞ゾーンを設定、今年は前夜祭を行った。和歌山城再建五十周年に当たる来年は、市が実施する城フェスタのオープニングを飾る予定。
 継承を担う垣内さんたちは、「和歌祭を教育につなげたい」と考えている。「年1回の祭の時だけ盛り上がるのでなく、自分で面を彫ったり、衣装を縫ったり。年間を通して祭に携わる環境を整え、礼儀作法や日本の伝統を学ぶ機会にしたい」と願いを込める。
 次の世代、また、次の世代へ・・・。「何十年、何百年も伝わってゆく」ことを願い、昔の祭に、現代から挑戦が続く。