ニュース和歌山2008年9月20日号湯元選手凱旋インタビュー記事

「ロンドンは双子の弟と“金”」
北京五輪銅メダリスト 湯元健一選手インタビュー

        
 数々のドラマを生んだ北京オリンピックから約1カ月。世界のアスリートがめざす夢舞台で輝いた1人が、男子レスリングフリースタイル60キロ級で銅メダルを獲得した和歌山市出身の湯元健一選手(23)だ。初めて挑んだ五輪の印象やメダルへの思い、今後の抱負など聞いた。 (文中敬称略)
    
湯元健一 1984年12月4日、和歌山市生まれ。西脇小、西脇中、和歌山工業高、日本体育大を経て、現在は日体大助手。小学3年の時、双子の弟、進一と和歌山ジュニアレスリングクラブへ。その一方、自宅2階の練習場で父、鉄矢からも指導を受ける。2002年にインターハイ、05年、06年に全日本選手権優勝。弟・進一は55キロ級のトップ選手。
---銅メダル獲得、おめでとうございます。
湯元 ありがとうございます。メダルを取って和歌山に帰ってくる事ができ、本当に良かったです。
---小さいころから夢見ていた五輪はいかがでしたか。
湯元 会場の声援がすごく、今まで味わったことのない雰囲気でした。客席で日の丸を振ってくれたり、「湯元健一」と書いてくれたものを掲げてくれたり。日本を代表しての戦いなんだと実感しました。
---初戦、2戦目と逆転で勝利。準決勝は接戦ながら敗れました。
湯元 準決勝の相手はヨーロッパ王者にもなっている経験豊富な選手。向こうが一枚上手でした。負けた直後、和工時代の恩師、山路明先生が国際電話をかけてきてくれ、「勝とうが負けようがあと1試合、結果にこだわらず、自分のレスリングをしてこい」と言われました。かなり落ち込んでいたのですが、その言葉で奮い立ちました。
---3位決定戦は第1ピリオドを取り、勝負の第2ピリオド、タックルからのアンクルホールド(足首を攻める技)が決まりました。
湯元 タックルもアンクルホールドも、家と和歌山ジュニアでよく練習した技です。海外の選手にはなかなか決まらず、最近はあまり使わなかったんですが、試合直前、弟の進一に「アンクルで行け」と言われ、その言葉が試合中に浮かんできたんです。弟の助言ってすごいなと思いましたね。
---試合直後に「ロンドン五輪で金をめざす」と、すぐ4年後に目を向けていたのが印象的でした。
湯元 試合前は北京後のことは考えていなかったし、「ロンドン」という言葉が出るとは自分でも思っていなかった。表彰式で、表彰台の隣の一段高いところにいる金メダリストを見て「やはり“金”がほしい」、日の丸を揚げられたのはうれしかったんですが、「次は日本の国歌を聞きたい」と思いました。そんな悔しさから出たんだと思います。
---家族にはどう報告しましたか。
湯元 試合当日、各テレビ局の出演を終え、深夜12時ごろ、父と母のいるホテルに行き、起こしました。父はほっとした表情でした。母は、今もはっきりと覚えていますが、にこっと笑ってくれました。
---今回出場できなかった弟の進一さんがサポートに回ってくれました。
湯元 弟にもメダルをかけました。「良かったなあ」と言ってくれましたが、うれしさと(自分が出られなかった)くやしさがまざっているように感じました。弟と同じ階級の松永共広選手が銀、僕が銅。弟にとっても世界でやれるんだと分かった大会だったと思います。
---五輪後、いろんな番組に出演し、忙しい時間を過ごしたのでは。
湯元 ジャンクスポーツ(14日放送済)や東京フレンドパーク2(29日放送予定)にも出させてもらいました。自分の中ではジャンクに出ればスポーツ選手として一流かなと思ってたんで、うれしかったですね。
---最後に今後について、お聞かせください。
湯元 今回、タックルなど自分の技で、そして湯元兄弟のレスリングでメダルが取れることが分かりました。北京は金メダルを取るための通過点。ロンドンでは絶対に進一と金メダルですね。それが最終目標です。1人で金より、2人で金です。

写真=和歌山ジュニアの後輩たちと記念撮影。湯元選手(中央)は子どもたちに「僕はこのマットで一生懸命練習し、銅メダルを取りました。みんなも頑張ればオリンピックに出られる。次の大会で勝つとか、身近な目標に向かって努力して下さい」とメッセージを送った

    
ニュース和歌山8月2日、8月6日、8月9日、8月13日号の4号連続で連載

夢舞台 北京へ
レスリング 湯元健一の挑戦(1)
    
家族と開いた夢の扉
    
 2008年6月25日、東京・代々木第二体育館は異様な緊張感に包まれていた。北京五輪レスリングフリースタイル60キロ級の日本代表を決めるプレーオフ。湯元健一(23)は赤いユニフォームを着てマットに立った。
 5月3日にポーランドで行われた北京五輪最終予選第2戦で優勝し、この階級の出場権を日本にもたらした湯元は、この日の全日本選抜選手権を制すればその権利を自らのものにできた。しかし、初戦でまさかの敗退。北京出場者決定は、この大会を制したライバル高塚紀行とのプレーオフに持ち越された。
 第一ピリオド、互いの手の内を知り尽くした2人が探り合う。1分16秒、湯元が得意のタックルに入る。が、警戒していた高塚が間一髪かわす。そのまま両者ポイントなしで2分が終了、延長戦に入る。
 延長戦は審判の引いたボールの色で攻撃権を決定。攻撃権を得た選手が片足にタックルした状態から始められ、30秒以内にポイントを取ればそのピリオドを得る。運命の抽選、審判が引いたボールは、湯元の着る赤だった。試合再開わずか4秒後、湯元が落ち着いて高塚を倒す。第1ピリオド先取。湯元の目が一層厳しくなった。
 第2ピリオド、これを奪えば湯元の勝利。互いに攻撃の糸口を見いだせないまま迎えた1分41秒、動いたのは湯元だった。高塚の手をかいくぐり、伸ばした左手が左足をとらえる。たまらず尻もちをつく高塚。湯元にポイントが入る。
 残り13秒。最後の攻撃を仕掛ける高塚、隙を見せない湯元。「5、4、3、2、1…」。場内が観客のカウントダウンに包まれる。試合終了を告げるブザーが鳴り響く・・・。
 湯元はゆっくり観客席に向かい、両拳を突き上げた。客席ではレスリングの基礎をたたき込んだ父、鉄矢(43)が泣いていた。共に五輪出場を夢見、技を磨いてきた双子の弟、進一も涙で前が見えなくなっていた。
 「僕らのレスリングの基礎はオヤジ。僕らは双子で生まれ、2人でずっとやってきた。弟がいなかったら、ここまで来られていない。プレーオフはオヤジと弟が一緒にマットに立っている、そんな気持ちで戦った」
 夢の扉を家族と開いた。しかし、その道のりはどんな脚本家も書けないほど劇的だった。 (文中敬称略)

写真=プレーオフ第2ピリオド、湯元のタックルが決まる


    
夢舞台 北京へ
レスリング 湯元健一の挑戦(2)
    
“天才型”でなく“努力型”
    
 小学3年の時、湯元健一は双子の弟、進一と和歌山県立体育館で開かれているジュニアレスリング教室に通い始めた。インターハイや国体出場経験のある父、鉄矢の影響だった。
 1年後、鉄矢が初めて練習をのぞいた。2人とも女子選手に投げられていた。同じころ、大会に出場した健一は、全国チャンピオンにこてんぱんにやられた。「いつか倒してやる」。闘争心に火がついた。試合後、父に「やるか」と聞かれた健一は「やる」と答えた。自宅で特訓が始まった。
 鉄矢が母校、紀北工業高校から古いマットを譲り受け、自宅2階の6畳間に敷いた。健一は進一と共にタックルや投げ技、防御と毎日みっちり基礎をたたき込まれた。気を抜くと愛のムチが飛んできた。午後5時過ぎに始まる練習が終わるのは「オヤジの気が済んだとき」だった。最高の舞台、五輪出場を夢見ながら、特訓に耐えた。
 中学に入ると、和歌山北高校や和歌山工業高校のレスリング部で高校生と一緒に練習をするようになった。和工監督、山路明の第一印象は、“将来、五輪をねらえる逸材”ではなく、「体の小さなレスラー」だった。ただ、「技術的なことを教えると、それができるまで黙々と練習していた」。ひたすら技を磨く姿が焼き付いている。
 このころ、運命の出会いが訪れた。アトランタ五輪銅メダリストの太田拓弥が県教委に入った。「強くなるヤツは影でも練習しているぞ」。テレビで見ていたあこがれの選手の言葉が心に響いた。普段の練習メニューに加え、休日も走り込みや筋力トレーニングを自主的に行った。レスリングへの姿勢が変わった。
 兄弟で和工に進学。進一は2年、健一は3年の時にインターハイを制した。日々の積み重ねが実を結び始めた。小学校高学年から高校まで指導した現・和歌山北高監督の森下浩は「将来の五輪を見据え、その時その時の目標に向かって、毎日全力で練習していた。他の選手より抜けていたのはその姿勢だった」。“天才型”でなく“努力型”。指導者たちは真摯に取り組む2人をやさしく見守った。
 大学は健一が日体大、進一は拓殖大と分かれたが、刺激しあいながら成長した。06年の国体はそろって優勝を果たした。特に健一は2005年の世界選手権に出場するなど、文字通り日本を代表する選手になった。
 迎えた07年、いよいよ北京へ向けた戦いが始まった。 (文中敬称略)

写真=レスリングを始めて約1年後の健一


    
夢舞台 北京へ
レスリング 湯元健一の挑戦(3)
    
ラストチャンスの重圧
    
 日体大に進み、頭角を現し始めた湯元健一は日本代表として2007年9月の世界選手権フリースタイル60キロ級に出場した。この大会で3位以内に入れば、北京出場が決まった。結果は初戦敗退。その2年前、05年の世界選手権も初戦で敗れていた。「湯元は世界で勝てない」。外野の声が聞こえてきた。
 北京五輪出場権は08年3月のアジア選手権、4月の最終予選第1戦、5月の同第2戦の結果次第となった。この3大会に出場する日本代表選手を選ぶ上で重要な意味を持つ07年12月の全日本選手権。決勝で06年世界選手権3位の高塚紀行に敗れた。60キロ級第1候補は高塚に移った。
 今年(2008年)3月、韓国でのアジア選手権に出場したのは高塚だった。優勝すれば北京代表に決まる高塚は、元世界王者を破り、勢いに乗って決勝へ駒を進めた。
 その知らせは同じ韓国で日体大の合宿に参加していた湯元に届いた。「俺に北京はないのか?」。夢を諦めざるをえない状況に追い込まれた。数時間後、結果が知らされた。高塚は決勝残り1秒で逆転負けを許した。首の皮一枚つながった。
 続く4月の最終予選第1戦、出場したのはまたも高塚だった。4位以内で高塚の北京行きが決まったが、初戦で敗れた。湯元にチャンスは残された。
 ただ、この時点でフリースタイル60キロ級の出場権を日本はまだ獲得していなかった。伝統的に日本が強い軽量級で、出場すらできない危機。残すは最終予選第2戦のみ。ラストチャンスに日本レスリング協会が選んだのは、湯元だった。
 準備はしていた。しかし、大きな重圧がのしかかってきた。この大会で上位4人に入らなければ、自分はもちろん、日本選手は出場すらできなくなる。「恐い…」。眠れない日が続いた。
 最後の戦い、プレッシャーと戦いながら、湯元は勝ち進んだ。迎えた準決勝、北朝鮮の選手に第一ピリオドを奪われたが、逆転で勝利した。決勝も勝ち、優勝で花を添えた。「世界で湯元は勝てない」。嫌な声を払拭した。
 五輪出場切符は取った。しかし、この切符はまだ湯元のものではなかった。所有者は6月の全日本選抜選手権の結果次第だった。「出場権を取ったのは俺。絶対に俺が北京に行く」。切符をかけ、最後の戦いが始まった。 (文中敬称略)

写真=昨年(2007年)2月、岩出で開かれた大会で子どもたちに技を披露


夢舞台 北京へ
レスリング 湯元健一の挑戦(4)
    
五輪への思い 1人じゃない
    
 6月25日のレスリング全日本選抜選手権は波乱の幕開けとなった。北京五輪フリースタイル60キロ級で日本の出場枠をもぎ取ってきた湯元健一は、優勝すればすぐに五輪出場が決まった。万が一敗れてもプレーオフで勝てば良かった。そこにわずかな油断があった。湯元は初戦で敗れた。
 「五輪、五輪と考えすぎ、かたくなった。自分の中に『もし負けてもプレーオフがある』との甘えもあった」。負けたことで逆にすっきりした。「俺が五輪に行かないでどうするんだ」。気持ちを入れ変えた。
 プレーオフの1時間前、双子の弟、進一がマットの上で雄叫びを上げた。55キロ級決勝で勝利し、初優勝を飾った。「俺はやったぞ。次はお前、絶対に勝てよ」。言葉がかわされた訳ではない。しかし、客席の湯元には確かに伝わった。
 プレーオフはこの大会を制したライバル高塚紀行との対戦となった。直前の控え室、「決着を付けてこい」と父、鉄矢が肩をたたいた。「きれいなレスリングじゃなくていい。絶対に勝つ」。重圧に負けた数時間前の湯元はそこにはいなかった。
 第1ピリオドを先取し、勝負の第2ピリオド残り19秒。この試合を、そして北京行きを決めたのは、父にたたき込まれ、弟との練習で磨き上げた高速タックルだった。「タックルで勝ちたい、そう思っていた」。最高の笑顔がこぼれた。

…  …  …  … … … … … … …

 数日後、壮行会に出席するため、湯元は和歌山に戻った。実家で過ごすわずかな時間、10年前の新聞記事を見ていた。「目標は2008年のオリンピックです」。ニュース和歌山の記事の中で中学1年だった自分がそう語っていた。
 「この記事で言ったことが現実になったんや」。父、鉄矢は目を細めた。「これだけ遠回りして勝ち取った北京、プレーオフで見せたあの表情で立ってほしい。それだけです」
 父だけではない。地元で友人や恩師と久々の時間を持った湯元は、周囲の大きな期待を再認識した。「実際に試合をするのは自分1人。でも、五輪への思いは1人じゃない」。そんな思いも、夢への道を踏破した今は自らの力に変えられる。「五輪に出る中で、僕が一番試練を与えられた。全てを出し切れば何かついてくる。表彰台の1番高いところにも行ける」---------
 夢舞台・北京のマットは、みんなの思いと共に上がる。  (文中敬称略)

写真=五輪出場を決め、進一(右)と握手。

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 連載は今回で終了。湯元選手が出場する60キロ級は8月19日(火)に行われる。


    
ニュース和歌山2007年2月28日号記事

レスリング界期待の星
湯元兄弟の挑戦
めざすは北京五輪切符

 北京五輪を来年に控え、日本レスリング界で注目を集める双子がいる。和歌山市出身の22歳、湯元健一、進一兄弟だ。五輪出場の第一関門となる1月の全日本選手権60キロ級で健一選手が優勝。進一選手は55キロ級2回戦敗退ながら、この階級の優勝者に試合終了間際まで接戦を演じた。健一選手は「五輪に出場し、レスリングをしている子どもたちに夢を」、進一選手は「健一は身近なライバル。互いに『負けたくない』と頑張ってきた。五輪の舞台に2人で立ちたい」----。二人三脚でめざしてきた夢へ、闘志をみなぎらせる。
         
 湯元兄弟がレスリングを始めたのは小学3年。インターハイや国体出場経験のある父、鉄矢さんの影響で、和歌山ジュニアレスリングクラブに入った。進一選手は「教えてくれたのは太田拓弥さんや和田貴広さんら五輪経験者。そのころから五輪出場を自然と意識するようになりました」と振り返る。
 和歌山工業高卒業後、健一選手は日本体育大、進一選手は拓殖大へ進学。健一選手は日本代表として2005年の世界選手権に出場した。また、昨年(2006年)10月の国体ではそろって優勝するなど、実力は国内トップレベルだ。
 目標とする北京五輪への道のりは険しい。出場権獲得には、今年1月の全日本選手権と6月の全日本選抜の両大会で優勝、もしくはいずれかで優勝しプレーオフを勝って、日本代表として9月の世界選手権へ。ここで3位以内に入れば五輪切符を手にできる。ベスト8の場合、日本にその階級の出場権が与えられるが、だれが出場するかは12月の全日本選手権の結果で決まる。
 北京への第一関門、1月の全日本選手権。フリースタイル60キロ級の健一選手は、初戦こそ本人も「エンジンがかかっていなかった」と反省するほど硬さが見えたものの、徐々に本領を発揮し、決勝はアテネ五輪銅メダリストの井上謙二選手に1ポイントも許さず頂点に立った。
 総合格闘技で人気の山本KID徳郁選手の参戦で注目度が高かったこの階級。KID効果か客席は超満員で、「テレビカメラがあちこちにありましたが、プレッシャーなく楽しくできました。決勝は自分の動きができた。内容も良く優勝でき、まずはホッとしています」と白い歯を見せる。
 一方、55キロ級の進一選手は初戦を突破し、2回戦で一昨年の世界選手権5位、松永共広選手と対戦。1ピリオドずつ取り合い、迎えた最終第3ピリオド、残り20秒まで両者ゼロポイントと緊迫した状況で、進一選手が動いた。「同点のままだと、コイントスで負けた方が不利な体勢から始まる延長になるので、こちらから仕掛けました」。しかし、相手にうまくかわされポイントを許し、そのまま終了。惜敗に終わった。
 ただ、進一選手は「松永選手とは今回が3戦目。1回目は全く歯が立たず、2回目もかなりの差があった。今回は3ピリオド終了間際まで競ることができた。手が届くところまで来ました」と自信を深めた様子。
 55キロ級と60キロ級は日本人選手が世界でトップクラスの実力を誇る階級。アテネ五輪では両階級とも銅メダルを獲得しており、日本代表になれば、北京でのメダル獲得も夢ではない。
 健一選手は「自分の力を出せばメダルに届くはず。今、課題に感じているパワー不足を克服できれば優勝も可能」ときっぱり。進一選手は「まずは6月の全日本選抜で優勝すること。五輪を目標に頑張る姿を見て、ふるさと和歌山でレスリングに打ち込む子どもたちもやる気になってもらえれば」と話している。

写真左から=タックルが得意な健一選手、投げ技を決める進一選手