江戸時代の地図と、現在の地図、写真で「あの場所」の「いま」が分かる。
A4横版で、絵が大きく見やすい。
取扱書店:宮井平安堂、帯伊書店、宮脇書店ロイネット店、宮脇書店和歌山店、宇治書店、オークワ本店、上野山書店、WAYガーデンパーク和歌山店・高松店、和歌山県立博物館、松木書店、松原書店、福岡書店、津田書店、荒尾成文堂、紀州屋、和歌山市観光協会、林書店、和歌山大学生協。
ニュース和歌山皆さんコーナー窓口(月曜〜金曜午前9時半〜午後4時)でも販売。
A4版オールカラー64ページ、1050円。
郵送希望者:1050円と送料(2冊まで80円。3冊以上は問い合わせ)を現金書留で〒640・8570ニュース和歌山総務部「城下町の風景」係へ。
問い合わせ:ニュース和歌山(073・433・4882)。
 
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城下町の風景 〜カラーでよむ『紀伊国名所図会』〜
和歌山城
ニュース和歌山本紙2008年8月16日〜2009年3月14日 

画=岩瀬広隆(1〜17、19〜24)・西村中和(18、25〜30)、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子、解説=和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕

『紀伊国名所図会』は江戸時代後期に和歌山の風景や風俗を絵図と解説で記した地誌書です。和歌山城下町周辺は約60枚の精密なスケッチがあります。彩色し、風景を読んでいきます。

(1)京橋御門の外
(2)追廻門付近
(3)昌平河岸(湊片原)湊橋付近の夜景
(4)一の橋・大手御門付近
(5)新大工町 土井呉服店
(6)岡口・東堀
(7)車坂稲荷社
(8)本町御門の外
(9)堂形の射場
(10)学習館全図
(11)蛭子神社の祭日
(12)医学館
(13)高石垣の略図
(14)本町五丁目新屋酒店
(15)扇の芝
(16)寄合橋
(17)吹上御門辺の図
(18)鷺森御堂西本願寺
(19)田中蜜柑市の図
(20)除夜日前宮へ裸参の図
(21)檜椿(ひのきつばき)の図
(22)本町の新屋(あたらしや)酒店
(23)岡口御門辺の図
(24)和歌道より御城を望む図
(25)寺町
(26)神明社・万性寺/堀止眺望
(27)志磨神社付近
(28)西店魚市
(29)湊河口
(30)鈴丸橋・伊勢橋付近
城下町の風景 〜カラーでよむ『紀伊国名所図会』〜
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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 
行き交う船 にぎわう河岸 (1)京橋御門の外

 上の絵は、和歌山市の中心部を流れる市堀川(内川)沿いの約160年前の風景です。京橋は木造で、和歌山城の正面入り口に架かっています。橋を南へ渡った三の丸側には京橋御門があり、そこから一般の人は入れませんでした。門の両側には高さ7メートル、幅約33メートルの土塁という防御施設が内川に沿って築かれていました。お城は堀と土塁で二重に護られていたのです。今は門も土塁もなく、店やビルが建ち並んでいます。
 京橋の北詰には、黒い板張りの火の見櫓と番所がみえます。内川は幅が約36メートルと今より広く、荷物を積んだ船が行き交っています。北岸の納屋河岸では毎朝、米市がたち荷揚げをする人々でにぎわっています。その後には蔵屋敷が建ち並んでいます。内川は、輸送の大動脈だったのです。
 『紀伊国名所図会』は江戸時代後期に和歌山の風景や風俗を絵図と解説で記した地誌書です。和歌山城下町周辺は約60枚の精密なスケッチがあります。今回からそのうち20枚を彩色し、風景を読んでいきます。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 
庶民の往来 にぎやかに (2)追廻門付近

 上の絵は、和歌山城の西入口、追廻門(おいまわしもん)付近の約160年前の風景です。
 左上の門は、馬の練習場、追廻しに近いことから追廻御門(おいまわしごもん)といいます。お殿様が普段生活している二の丸御座(ござ)の間から南西の方向、裏鬼門にあたるため、門全体が赤く塗られました。くぐり戸だけを開けた門の前には「下馬」と記した立札があり、藩士はここで馬や駕籠(かご)をおりて登城しました。お供の下級武士たちは屋根に槍をもたせかけ、待合所で腰掛けて待機しています。
 ここはお城の内郭へ入る門前ですが、武士のほか、大きな風呂敷包みを担ぐ人、ふり売りの魚屋、落ち葉をかき集める子ども、犬と戯れる幼児や艶やかな着物の女性など、様々な人たちがみえます。中央の大きな人物は力士でしょうか? その手前の小僧が持つ手提げから大きなタイを鷲づかみにして飛び去るトビ、見上げる人たちの表情がユーモラスです。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 
夕涼み客でにぎわう夜店 

(3)昌平河岸(湊片原)湊橋付近の夜景

 上の絵は、和歌山城三の丸の西側にあった西外堀付近の約160年前の真夏の夜景です。
 右上の橋は西外堀に架かる湊橋で、夕闇の中に湊橋御門がみえます。背景の松林は、西外堀沿いの土塁(どるい)に植えられたものです。内川(市堀川)に架かる寄合橋の西詰から南へ西外堀に沿っては、湊片原(みなとかたはら)と呼ばれる片側町がありました。そこは文化年間に昌平河岸(しょうへいがし)と改められ、商家が建ち並び、夏には夜店も出て、夕涼みの客でにぎわいました。西外堀にも屋形船が出ています。
 河岸には扇子、団扇を並べた「萬小間物所」、「名物いくせもち」の店、提灯に「松風亭」と記した茶店等があります。通りには子どもの手を引く親子連れ、浴衣の女性、団扇や扇子を手にした町人や武士の姿がみえます。中央右には「勧進元」の提灯を手に持ち、触れ太鼓を打ち鳴らす5人組が練り歩き、あす城下町で相撲の興行があることを知らせています。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

広々とした北堀と大手道 

(4)一の橋・大手御門付近

 上の絵は、和歌山城公園前から天守閣を望んだ約160年前の風景です。大手御門は、一の橋を渡って、お城の内郭へ入る門です。門の右には今はない月見櫓(やぐら)、二の丸には表御殿(おもてごてん)の大きな屋根がみえます。天守閣手前の峯、今の水道給水場の位置には本丸御殿がえがかれています。北堀は、明治時代以降、市電敷設と道路拡幅のため埋め立てられ、41メートルあった堀幅が29メートルになりました。一の橋から北(右)へ延びる大手道は、内川(市堀川)に沿ってあった土塁に突きあたり、クランク状に曲がって京橋に達します。
 三の丸には藩の重臣の屋敷地がありました。絵図の手前、大手道の東側には家老の三浦家、西側には渡辺家の一角がみえます。渡辺屋敷地の東側には細長い建物があります。その前には駕籠が五台並び、登城した藩士の家来たちが屋根に槍をもたせかけ、付近で待機していることから、待合所であったことがわかります。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

新町の大店と三方出合

(5)新大工町 土井呉服店

 上の絵は、大新小学校前の大新通りから西側を望んだ約160年前の風景です。
 土井呉服店は、城下町東部、新町(大新地区)の新大工町にありました。屋根には「呉服物」の看板を掲げ、紺地に「直川屋」の屋号と家紋を白く染め抜いた暖簾(のれん)を掛けています。呉服の大店は本町付近にたくさんありましたが、ここはそれらに劣らない大きな店構えです。店頭の販売に力を入れていたようで、ミセノマとドマには多くの客と店員の姿がみえました。
 背景には、北新町川(真田堀川)と合流した鈴丸川(大門川)が、内川(市堀川)と合わさる三川合流地帯をえがいています。その中央には、水野丹波守の上屋敷、左には堀詰橋、右には雑賀橋を配しています。
 右上の雑賀橋からブラクリ丁に至る東西の通りは一直線になっています。この通りは、東の新町から西の湊まで連続し、城下町プランの東西の基準線と考えられます。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 
今と変わらぬ お堀の鯉 (6)岡口・東堀

 広々とした水域は、和歌山城の東堀で、幅が約75メートル、今もそのままの広さで残っています。右下の建物は、三の丸の南東入口、広瀬口御門です。三の丸は紀州藩の重臣屋敷地で、同心が交替で御門の番にあたっていました。そこから風呂敷包みを担いで出てきたのは、おそらく出入りの呉服商で、お屋敷へ反物を持参して注文を取りにきた帰りでしょう。
 門の左側には松を植えた土塁がありました。それに沿った狭い水域は東外堀で、幅が約17メートルあり、内川を通ってここまで舟で物資を運ぶことができました。しかし、東外堀は大正5年(1916)から埋め立てられ、広瀬口御門や土塁も今は残っていません。
 東堀と東外堀の間には、大きな傘の下で、丸いセンベイを台に並べて売る店が見え、子どもが買い求めています。鯉はエサがもらえる南東の角に集まってきて、子どもたちはエサをばらまくと、鯉が飛び跳ね争って食べるのをおもしろそうに眺めています。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 
朱色の鳥居と根上り松 (7)車坂稲荷社

 和歌山城の南から新堀にかけては、吹上砂丘の峯が続いていました。上の絵は、吹上の車坂(桐蔭高校北側)付近の約160年前の風景です。
 周辺の砂丘の斜面には根上り松がたくさんみられ、車坂は砂丘を東西に横ぎる切通の一つだとわかります。その語源は、熊野御幸の時に輿車(こしぐるま)がよく通った道だからとか、小栗判官が熊野の温泉に向った道だからといわれますが、はっきりしません。
 車坂稲荷は、江戸時代に大智寺境内、今の中央保健所東側の砂丘頂上にありました。絵では、家来を連れた武士、日傘を差した親子らが坂を登り、稲荷社に参拝しようとしています。人々は願かけをして叶うと鳥居を寄進したといい、坂から社頭までの間には朱色の鳥居が2列で数千基たち並んでいます。江戸時代の人々は、どんな願をかけたのでしょうか。稲荷社は、大智寺が大立寺に併合された明治初年に、車坂南側の砂丘上に移されました。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 
城下町の出入り口 (8)本町御門の外

 この絵は、嘉家作丁付近から西側をみた、約160年前の風景です。今は、紀の川に架かる紀の国大橋の南詰で、住宅が密集しています。
 石垣の手前の広々とした所は広小路といい、その奥には本町御門の屋根がみえます。この門は、本町御門番の同心20人が2組に分かれて警備にあたり、夕方6時に大門を閉め、夜10時にはくぐり小門も閉め通行を止めました。
 広小路を出た所は大和街道あるいは伊勢街道といわれる大道で、道幅が約12メートルありました。街道には茶店や旅籠屋が軒を並べ、駕籠や旅支度の人々が往来しています。中央手前の2人の子供は、鳥毛をつけた獅子頭をいただき、腰に鞨鼓(かっこ)をつけた角兵衛(越後)獅子です。江戸時代後期、門付の獅子舞として各地で人気があり、親方に連れられて諸国を巡回していました。幼児たちがめずらしそうに集まってきています。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

三十三間堂を模した弓矢の練習場 

(9)堂形の射場

 上の絵は今の和歌山県立博物館付近にあった吹上砂丘の上から眺めた風景で、中央の建物は堂形の射場(どうぎょうのいば)といいます。
 江戸時代に弓矢の甲子園であった京都の三十三間堂の通し矢で、貞享3年(1686)に名草郡和佐村(現和歌山市)の和佐大八郎が一昼夜に8133本の弓矢を121メートル先の的に命中させ、日本一の記録をつくりました。それにちなんで、弓矢の練習場に屋根をかけたようです。
 射場の西側は松原になっていて、その中には通り抜けの道や眼鏡(めがね)池がありました。背景には和歌道を行き交う人々、右上には今の和歌山県庁付近にあった約9000坪の広大な久野丹波守の上屋敷をえがいています。久野丹波守(1万石)は、伊勢の田丸城を拝領し、紀州藩家老を務めていました。右端の長屋門の前には、来客でしょうか、駕籠から降りた武士と出迎える人がおり、お供の人たちが外に立っています。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 
藩校学習館と湊の風景 (10)学習館全図

 寄合橋東詰にあった火の見櫓からみた湊地区の風景でしょうか。遠くには紀の川河口や和泉山脈の山並みがみえます。
 寄合橋を渡った西側には、内川に面して約530坪の紀州藩の藩校が建っています。それは正徳3年(1713)5代藩主徳川吉宗が儒学教育のため湊御屋敷跡に創設した「講堂」を、10代藩主徳川治宝が再興し、寛政3年(1791)に「学習館」と名づけたものです。ここでは藩士やその子弟の教育のため、『紀伊続風土記』を編纂した儒学者仁井田好古や国学者の本居宣長らが講義をしました。
 学習館の後ろには伝法御殿、伝法橋を渡った今の和歌山市駅付近には、伝法御蔵と御舟蔵が描かれています。紀の川から内川へ入る付近は、海を越えてきた大型船から川を遡る小型船に積み替えたりする、海陸の結節点で、港湾施設が集中し、紀州藩の経済・交通上、重要な場所であったことがわかります。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

牛の舌餅を投げる祭の風景 

(11)蛭子神社の祭日

 蛭子神社は、小野町二丁目にある水門吹上神社のことです。「湊えびす」の名で人々に親しまれ、1月9日から11日の十日戎には大勢の参拝者があり屋台店が出てにぎわいます。同社は、かつて紀の川河口の和田浦鵜ノ島(現在の御膳松付近)にありました。『紀伊国名所図会』初編の「湊河口」の絵には外浜に旧社地がえがかれています。その付近は明応7年(1498)の地震・津波で大きな被害を受けたため、現在地へ移ってきたといわれています。
 上の絵は、約160年前の11月23日の同社の祭日に行われた、牛の舌餅投げの風景です。屋根の上から餅を投げると、下で待ち構えていた人たちが争って受け取ったり拾ったりしました。牛の舌餅という絵のような大きなのし餅を投げると人々は奪い合ってちぎれちぎれになっています。餅投げは、一時は中断されていましたが、現在はまた復活して11月23日の新嘗祭の日に行われています。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 
江戸時代の藩立医学校・病院 (12)医学館

 医学館は、寛政4年(1792)に、10代藩主徳川治宝が藩内の医師の子弟や門下生に漢方の医学を教授する医学校として、本町三丁目に創設しました。その後、医学館は雑賀屋町(現在の県庁北側)に移され、天保年間(1830〜44)には「施薬局」が置かれ、庶民に薬を施す藩立病院の役割も果たしました。
 絵の手前の道は、左へ坂道を下ると藩校学習館に、右へ行くと久野丹波守の上屋敷に突き当たります。この南北方向の道に面して冠木(かぶき)門が設けられています。その門をくぐろうとしている人物は、帯刀し剃髪している風体から医師と思われます。
 門の両側にはナマコ壁の長屋、奥には医学館の本棟がみえます。城下町の武家屋敷は質素な建物が多かったようですが、江戸時代の後期になると、城下町にはこうした立派な建物も建てられました。ここは、現在も病院になっていますが、それは偶然でしょうか?(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 
狭くて急な三年坂 (13)高石垣の略図

 これは三年坂から東側を見た約160年前の風景です。道の北側には南堀、東堀、東外堀があり、背景には今の紀の川市の龍門山がえがかれています。
 三年坂は、お城から南へ続く吹上砂丘の切通しの一つで、当時は今より狭くて急な坂道でした。荷車で板材を運ぶ職人たちは、坂を登りきり一息ついています。三年坂には、「この所にて転びしものは、3年の内に必ず死ぬ」という俗信がありました。暗くて急な坂なので転ばないように気をつけよということだったのでしょう。坂は明治以降、何度も切り下げられ拡幅されました。高石垣は、砂丘地帯のため堀のかわりに、お城の南西部の護りとして造られたものと考えられます。
 東外堀沿いには土塁が築かれ、松が植えられています。三の丸入口には広瀬御門があり、その両側の土塁は石垣で固められているのがわかります。しかし、御門と土塁は明治初年に撤去され、東外堀は大正5年(1916)に岡山丁から屋形町三丁目まで埋め立てられ、跡地は一般に払い下げられました。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

藩主も飲んだ? 不老長寿の酒

(14)本町五丁目新屋酒店

 上の絵は、約160年前の9月9日、本町五丁目の東側にあった造り酒屋、新屋の店頭をえがいています。暖簾に屋号を「あたらしや」と染め抜いています。
 ここは城下町の中ですが、紀の川の伏流水が得られ、美味いお酒ができました。重陽の日は未明から、不老長寿の新酒「菊のした水」を求めて、人々が新屋に殺到しました。店内ではロウソクを灯して、枡と漏斗を使って酒を量り売りしています。店先には、酒徳利を持参する人や角樽を持ち帰る人にまじって、子どもの姿もみえます。今は未成年への酒の販売は法令で禁止されていますが、昔は子どもが酒屋へよくお使いに行きました。絵の左下では、子どもが徳利を落として割ってしまい泣き出しています。犬は無情にも尻尾を振って、そのにおいを嗅ぎに来ています。
 新屋は代々御用を勤め、毎年新酒をお殿様に献上しました。紀伊国名所図会の編纂に尽力し、和歌浦に不老橋を架け、82歳まで生きた10代藩主治宝もこの不老長寿の酒を飲んでいたのでしょう。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 
武術の見物スポット (15)扇の芝

 和歌山城の砂の丸から追廻門を外に出ると、高石垣沿いに三年坂へ向かう道と今の県庁前交差点へ向かう道がありました。その間のお城の南西隅にある芝を植えた土地は、その形から扇の芝と呼ばれました。後に8代将軍となった徳川吉宗は、誕生した時に健康を願って、ここ扇の芝に捨てられ岡の宮の神主に拾わせて、幼少期を加納家で育てられたという逸話があります。
 扇の芝の前は、南北約350メートルの細長い馬場となっていました。上の絵のように、藩士は馬に乗りながら弓を射る、流鏑馬(やぶさめ)の練習などに励みました。馬場に沿って、その東側には少し根が上った松並木があり、木陰で藩士たちの武技を見物する老若男女の姿がたくさんあります。ここは、庶民が武術を最も身近に観られるところだったのでしょう。
 扇の芝からは、高石垣と連立式天守閣がよく見えました。現在は、馬場と扇の芝の大半が国道26号の道路敷と商業地になっています。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 
整然とした城下の町並み (16)寄合橋

 上の絵は、約200年前の内川(市堀川)沿いの城下町を鳥瞰してえがいています。寄合橋は内町と湊の間に架かる橋で、その東詰の火の見櫓は内部構造が見えています。その後に黒板が張られたため、連載の1回目に掲載した、約160年前の「京橋御門の外」の絵では同じ場所の火の見櫓が黒板張りになっています。
 中橋と中橋筋は、現在の位置より約50メートル西側にありました。手前の松林は、城内三の丸の土塁上のものです。内川北岸の納屋河岸では米のせり市が毎日たち、多くの物資が荷揚げされています。上の絵では内川に面して普通の町家がえがかれていますが、「京橋御門」の絵では土蔵造りの建物が並んでいます。この間に、町の風景が大きく変わる事件があったのでしょうか。
 城下町の町割は整然としていて、町と町の間には、防火や防犯のため木戸がありました。上の絵には、木の柵のような木戸が8か所にえがかれています。背景には鷺森別院の大屋根がみえています。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

お城への北西入口 吹上御門

(17)吹上御門辺の図

 上の絵は、和歌山城を北西上空から眺めた約160年前の風景です。今の汀丁交差点付近ですが、けやき大通りと中央通り(国道24号)にあたる道が実際よりかなり広くえがかれています。
 旧中消防署付近には、西外堀があって西の丸橋が架かっています。橋を渡ると吹上御門があり、門をくぐって左へ進むと、西外堀の曲り角の石垣の上にみえる吹上大御門に至ります。
 左下の建物は文政3年(1820)に置かれた紀州藩の御蔵で、蔵の前には米俵がたくさん積まれています。その敷地は、今のネッツトヨタと毎日新聞社付近にあたり、北・東・南が西外堀で囲まれていました。
 明治6年(1873)道路建設のため、今の商工会議所前の部分が埋め立てられたのを皮切りに、西外堀は旧中消防署の西側を除いて、昭和15年(1940)頃までにすべて埋め立てられました。その跡地には、商工会議所、勤労者総合センター、教育文化センター、あいあいセンターなどが建っています。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=西村中和、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

東向きに建つ鷺森御坊

(18)鷺森御堂西本願寺

 これは、和歌山城の北側に位置する本願寺鷺森別院(御坊)の今から約200年前の全景です。
 和歌山の城下町絵図をみると、整然とした城下町の中で鷺森付近だけ異なった町割になっていることに気づきます。それは、永禄6年(1563)に本願寺が弥勒寺山(秋葉山)からここ鷺森へ移転し、城下町より先に寺内町を形成していたからです。その町割は、近代になっても変更されずに残ってきました。しかし、戦後の区画整理事業によって御坊西側の道を除いて、街路は付け替えられました。
 上の絵は、現在の南向きの御坊の建物配置と錯覚しますが、熊野街道の和佐付近から紀の川に沿って西へ進み、鷺森御堂筋の突き当たりに御坊の表門がありました。北側に朝椋神社があり、東側の教応寺が手前にえがかれることからも、御坊が東向きに建っていたことがわかります。御坊の周囲には土塀や長屋があり、外周には堀が廻らされています。これは、戦国時代の防御施設のなごりかもしれません。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

城下町の風景 〜カラーでよむ『紀伊国名所図会』〜
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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 
年の瀬の風物詩 (19)田中蜜柑市の図

 これは、和歌山駅に近い田中町の約160年前の冬の風景です。田中町は、城下町東端の町人町で、近世の熊野街道・龍神街道及び和歌川水運の結節点にあたり、近郷の農村から城下町へ運び込まれる果物や野菜の市で賑わいました。
 紀州みかんは、皮が薄く、甘さとすっぱさを兼ね備えた味で江戸時代から全国的に知られていました。嘘か真か、紀伊国屋文左衛門が暴風雨のなか、みかんを紀州から江戸へ船で運んだ伝説はあまりに有名です。
 上の絵では、みかんを囲んで競りをし、若い衆が帳簿をつけているようです。軒先にはみかんカゴが山積みになっています。今なら黄色いコンテナやダンボール箱に詰めて輸送し売買していますが、昔はわらで作ったカゴを使っていました。
 左上の店先ではおんぶされた子どもがみかんを一つ手にのせ、母親に促されて「ありがっと!」といっています。隣のおとなは舌を出しおどけた表情をしていますが、何と言っているのでしょうか。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

大橋を裸でかける参詣客

(20)除夜日前宮へ裸参の図

 上の絵は、大晦日の夜に広瀬から和歌川に架かる大橋を渡って日前宮へ参拝する人たちをえがいています。今日でも除夜の鐘を聞いた後、初詣に出かけたりしますが、今より寒かった江戸時代に、裸で参詣する人たちが大勢います。何かご利益があるのでしょうか。月の出ない真っ暗な夜に、提灯を片手に日前宮へ行進する様子は、まるでお祭りのようです。
 大橋から田中町をまっすぐ東へ行き、東瓦町で龍神街道を右へ曲がって少し進むと、左手に日前宮の森が見えてきます。日前宮は、城下町の東、秋月に鎮座する紀伊国の一ノ宮で、日前・国懸(ひのくま・くにかかす)という2つの神宮からなっています。今日でも和歌山で最も多くの初詣客を集めています。
 大橋の東詰には右に番所、左に高札があり、背景の和歌川の広瀬河岸には船が停泊し、木材が山積みになっています。新年を迎える約160年前の城下町和歌山の風景です。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

花樹と松に囲まれた鶴ノ渓

(21)檜椿(ひのきつばき)の図

 上の絵は、約160年前に和歌山城砂ノ丸の鶴ノ門から鶴ノ渓をみた風景で、『紀伊国名所図会』の中で唯一、内郭をえがいたものです。ここへ行けば、今日でもほぼ同じ風景をみることができます。
 鶴ノ渓の名前は、今から約400年前の浅野時代に、ここで鶴が飼育されていたことに由来します。右下には水生植物がはえる池があり、「つるの餌入」がえがかれています。鶴の餌鉢は現在、天守閣に展示されています。
 鶴ノ渓の正面には二ノ丸の建物、切手御門とその続きの櫓がみえます。左側は西ノ丸(紅葉渓)庭園で、白壁の土塀に沿って檜椿が植えられています。檜椿は八重と一重があり、春に赤と白の花をつけます。右側の石垣は野面積みの青石(緑色片岩)で、その上には山吹が繁っています。
 今はうっそうとした広葉樹の森になっていますが、当時の鶴ノ渓は鮮やかな色の花が咲く樹木や松林に囲まれていました。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

紀州名産小西瓜の粕漬 

(22)本町の新屋(あたらしや)酒店

 新屋は本町五丁目にあった造り酒屋ですが、新屋漬という小西瓜の粕漬も有名でした。元禄のころ(約300年前)に新屋の杜氏だった源五兵衛が布引村(現和歌山市)の西瓜畑から持ち帰った小西瓜を酒粕に漬け込んだところ、非常においしかったことからつくり始め、全国各地に出荷したといいます。
 つくり方は、初なりの小西瓜を水洗いして、最初に塩漬し、それから酒粕に漬け直して本漬にします。上の絵は、約160年前の新屋で、小西瓜をはじめ白瓜や茄子などを桶に漬け込む粕漬の作業風景です。仕事がきついのか、背中にお灸の痕がある年寄もいます。
 漬け初めから80日から90日ででき上がり、独特の風味と歯ごたえで好評を博したそうです。しかし、新屋は明治12、3年ごろに廃業しました。
 今日でも、和歌山産の源五兵衛種という専用の小西瓜を使った奈良漬が売られています。普通の奈良漬はちょっと苦手ですが、小西瓜の新屋漬はどんな味がしたのか食べてみたくなりました。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

広瀬から望む和歌山城 

(23)岡口御門辺の図

 和歌山城を東側から望んだ約160年前の風景です。岡口御門は浅野時代までの大手門で、その後も南東部の入口として利用されました。門の左には御蔵、右には多門櫓、さらに右には銃眼を備えた土塀が続きます。門と土塀は、空襲でも焼失せず、和歌山城で唯一、国の重要文化財に指定されています。
 お城の手前には広い東堀、左側には南堀があります。南堀は現在空堀ですが、当時は水をたたえていました。左端中央は天妃山、その横は待合所で、屋根に槍をもたせかけ、登城した藩士の供の人たちが待機しています。前には駕籠5台、馬屋には馬3頭がみえます。隣は、城の修理などに携わる職人が住んだ百間長屋です。
 東堀の手前は藩の重臣屋敷が建ち並ぶ三ノ丸で、入口に広瀬御門と番所、門の両側には土塁が設けられています。広瀬通りに沿う東外堀には、堀端へ降りる雁木がみえ、ここまで舟で物資を運ぶことができました。
三年坂の向こうには水軒堤防、はるか沖には紀伊水道を航行する船の帆がみえています。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=岩瀬広隆、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

ここは誰のお屋敷? 

(24)和歌道より御城を望む図

 上の絵は、約160年前の和歌道に沿う吹上の武家屋敷地の風景です。手前の和歌道(ほぼ現在の国道42号)は和歌山城の西側から和歌浦に至る砂丘上の道で、幅が約6メートルありました。そこには、ふり売り商人、登城する武士の一行、親子連れらの姿が見えます。
 土塀で囲まれた武家屋敷の樹木の間にはお城が見えますが、ここは誰の屋敷でしょうか? 和歌道と右(東)側の道は三叉路をなしていて、武家屋敷はその北東角地に位置し、南側に門があります。この条件と合う武家屋敷を当時の城下町絵図で捜すと、市川門大夫(250石、現吹上二丁目)と伊達千広(800石、同三丁目)の屋敷の2軒しかありません。千広は、勘定奉行兼寺社奉行を務めていましたが、嘉永5年(1852)、10代藩主徳川治宝の死によって失脚し、田辺の安藤家に預けられます。もし伊達屋敷だとすると、千広の子陸奥宗光が生まれた所ですが、門構えからすると、市川屋敷かもしれません。どちらにしても、中級藩士の屋敷の様子がわかる貴重な絵です。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)


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画=西村中和、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

ひときわ広大な大智寺  (25)寺町

 上の絵は、約200年前の寺町の風景です。寺町は和歌道(現国道42号)から東へ入った横町で、和歌山城南側の防備のために寺院が配置されました。
 東西に走る寺町通りの両側には報恩寺、護念寺、大恩寺、窓誉寺、三光寺、恵雲寺、本光寺、妙法寺、大泉寺、延寿院、法泉寺、蓮心寺が見えます。寛永10年(1638)の大洪水の被害を受けて、元寺町から移ってきたお寺もあります。寺町通りの東端には階段があって、標高約20メートルの吹上砂丘の上に広大な敷地の大智寺が建っています。同寺は初代藩主徳川頼宣が兄の2代将軍秀忠の菩提を弔うため寛永9年に創建したもので、本堂の左横に御霊屋が見えます。
 しかし、大智寺は明治3年(1870)に橋向丁の大立寺に併合されました。その跡地には大正14年(1925)に真砂浄水場が建設され、水道坂が切通されました。その周辺の地形は大きく変わりましたが、砂丘上には徳川家御廟だけが残り、歴代藩主の妻や娘の墓碑が今もひっそりと並んでいます 。 (和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=西村中和、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

堀止東にあった南外堀


(26)神明社・万性寺/堀止眺望

 左側は神明神社と万性寺(ばんしょうじ)付近、右側は堀止から新堀方面を見た約200年前の風景です。
 左の絵の神明神社は寛永12年(1635)に吹上から今福(現=堀止西二丁目)の小高い砂丘上へ、また万性寺は延宝5年(1677)に井原橋の北側から今福へ移転してきました。
 新堀川は、和歌山城の防備と武家屋敷地への物資輸送のため、寛文9年(1669)ころに掘削されました。当初は堀に面して万性寺が建っていたのです。初代藩主徳川頼宣は和歌川から今福に至る南外堀を計画し、神明神社前まで掘り進みましたが、今の堀止交差点まで埋め戻したため、付近を堀止と呼んでいます。
 右の絵の新堀川は幅約33メートルで、砂丘地帯を横切るため深い谷のようです。その右側は新堀の町人町、左側は吹上の武家屋敷地で、袖摺松という枝ぶりのよい松が見えます。しかし新堀川は、大正12年(1923)和歌山市水道局の真砂浄水場建設によって、不用となった土砂で埋め立てられました。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)


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画=西村中和、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

寺社が建ち並ぶ中之島

(27)志磨神社付近

 上の絵は、城下町の北東に位置する中之島村(現=和歌山市中之島)付近の約200年前の風景です。
 中央の志磨神社は、古代に紀の川河口近くの中州に立地した歴史のある神社で、その名は延喜式(古代の律令の施行細則)にもみえます。中之島村にはそのほかに、神社では八幡宮・弁財天社・金比羅社、寺院では入願寺・大聖寺・阿弥陀寺・法隆寺・明見寺・観音寺がみえます。
 中之島は城下北新町から大和街道の地蔵の辻へ向かう交通の要衝にあたりました。左下の雲の付近、今の北大通りの東仲間町には五行(ごぎょう)の辻という五叉路があり、そこから右上へ延びる道は、当時の幹線道路で、城下町から地蔵の辻への近道でした。左下の町並みは北新元金屋丁の町屋で、そこと接する中之島村の南西部は道路に沿って町並みが続いていますが、街道の裏側には茅葺きの農家や田園が広がっています。左端の明見寺の裏には紀の川の氾濫後にできた蓮池があり、泥亀川が南へ流れていました。(和歌山市立博物館学芸員・額田雅裕)

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画=西村中和、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

にぎわう城下町の台所  (28)西店魚市

 西ノ店(にしのたな)は、和歌山城東部の広瀬にあった東ノ店が、内町に移転してきて西ノ店になったといわれます。ここでは毎日魚市が開かれ、東隣の万町では野菜や果物の市が立ちました。
 本町通りを挟んだ東側のぶらくり丁は、文政13年(1830)の大火後、古着などの商品を店先にぶらくって(吊り下げて)販売したことから、その名がついたといわれます。これらの商店街は大手筋(本町通り)から西・東に入った横町で、道幅は約4メートルしかありませんでしたが、多くの人で賑わいました。
 上の絵は西ノ店の卸売市場ですが、商人だけでなく武士、僧侶、巡礼、女性らも通行しています。市場には右端に2人がかりで担ぐマグロをはじめ、タイ、ウナギや様々な青魚がみえます。ふり売り商人は、ここで魚を仕入れ両カゴいっぱいに詰め込んでいます。左端では、魚をくわえた犬を追いかける人の背後で、子犬がカゴの魚をうかがっています。約200年前の城下町のいぶきが伝わってくるようです。(和歌山市立博物館主任学芸員額田雅裕)

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画=西村中和、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

紀伊水道望む紀の川の河口  (29)湊河口

 上の絵は、久保丁付近から西の紀伊水道を眺めた約200年前の風景です。背景には、和泉山脈の雨森山(雲山峰=490メートル)・飯盛山(385メートル)から淡路国(現=兵庫県)、鳴門海峡を挟んで四国の阿波国(現=徳島県)までえがかれています。
 市立博物館のある湊本町付近は河港となっていて、通称湊西河岸(みなとにしがし)といいました。城山(久保丁四丁目の河岸公園付近)の西側には、帆をおろした船が何隻も停泊し、突堤では積荷が下ろされています。河岸には船改めの番所があります。
 紀の川の中州では白い布をさらしています。その北岸の外浜には、湊の目あてとなった燈籠堂がみえます。鼠島(現=築港)の向こう側には、薬種畑から青岸へ続く砂丘上に松並木があり、その手前(東側)は風除けになって船が停泊する天然の良港となっていました。 
 沖には、湊を目指して紀伊水道を航行してくる船の帆がいくつもみえ、当時、海上交通が活発であったことがわかります(和歌山市立博物館主任学芸員額田雅裕)

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画=西村中和、彩色=わかやま絵本の会・芝田浩子
 

『名所図会』と萬精院 

(30)鈴丸橋・伊勢橋付近

 上の絵は、城下町北東部の約200年前の風景です。そこにはたくさんの寺院がみえます。手前の鈴丸橋を渡った新町には龍源寺・法蓮寺・萬精院が、そこから中央の伊勢橋を渡った北新町には円福院・崇賢寺が建っています。和歌川の両岸には多くの舟がつなぎ留められ、河岸には薪(たきぎ)が積み上げられています。
 伊勢橋南詰の萬精院には、『紀伊国名所図会』を編集・出版した高市志友(帯屋伊兵衛)と同書の第3編と後編の挿絵を担当した画家、岩瀬広隆の墓があります。広隆は菱川師宣5代目を自称し、祇園祭の先頭長刀鉾の前掛けの絵をえがくなど、京都で活躍する新進の浮世絵師として有名でした。彼は天保4年(1833)に『名所図会』の挿絵をえがくため和歌山に招かれ、紀州藩のお抱え絵師となり、明治10年(1877)に亡くなるまで和歌山で暮らしました。
 『名所図会』の制作に携わった2人が眠る萬精院の墓所を最後に紹介し、この連載を閉じることにします。長らくご拝読いただき、ありがとうございました。(和歌山市立博物館主任学芸員額田雅裕)