今回は紀の川市に住む女性(47)からの疑問。「紀の川市には東国分という地名があります。隣の西国分は岩出市になるのがいつも疑問です」。

 国分の歴史は、奈良時代、聖武天皇が仏教による国の安定を願い、諸国に国分寺・国分尼寺建立の詔を出したのに始まります。紀伊国分寺は756年、現在の国分寺跡(紀の川市東国分)に整備されました。

 同じ「国分」の名を引く東国分、西国分がなぜ別市に? 紀の川市生涯学習課に協力頂きました。


 

明治期の行政区分が影響か

 「東国分は紀の川市なのに、隣の西国分は岩出市?」。紀の川市生涯学習課の協力で調べました。江戸時代の『紀伊続風土記』に「古国分寺領の民が東西に分かれて住み、ともに国分寺境内の鎮守の神を産土神とした」との記述が残ります。分かれた理由は不明ですが、その後、近世に及び、東国分村、西国分村となります。

 『角川日本地名大辞典30和歌山県』などによると、1889(明治22)年に町村制により東国分村は池田村、西国分村は上岩出村に入ります。次いで1956年、池田村は田中村と合併し打田町、上岩出村は岩出町に。打田町は2005年に5町で合併して紀の川市となり、岩出町はその翌年に市となります。

 同課は専門的な見解ではないと断りつつ、「東国分と西国分の境は古代の土地区画、条里制の境と一致します。その区分が残ったのでは」とみます。

 地理学が専門の和歌山市立博物館元館長、額田雅裕さんは「西国分には国分尼寺であったとの説もある西国分廃寺跡があり、国分寺、国分尼寺を軸に2村に分かれたのでは」と推論します。そのうえで、「郡を単位にした土地の区画である、古代から明治時代は、2村は同じ那賀郡内の隣村でした。それが明治の町村制で別の村に編入され、今へ至ったのでは」と考えます。

(ニュース和歌山/2020年8月15日更新)