和歌山城西ノ丸に付随した「西ノ丸庭園」は、通称・紅葉渓庭園の名で親しまれている城郭(大名)庭園です。現存する近世初期の城郭庭園として国の名勝に指定されています。

 近世のお城に庭園を造ったのは、織田信長と豊臣秀吉と言われています。大坂城に造られた庭園は、大きな池や堀を「海」に、大石で起伏のある「渓(たに)」を、そして、高台を「山」として「山と里」を表現し、山里曲輪(くるわ=区画)と呼ばれました。

 和歌山城西ノ丸庭園は、山と里を散策できるように、道を設けてめぐり歩ける回遊式庭園で、山の部分からは、里風景を望みながら茶を楽しんだ癒しの空間でした。

 この作庭者については初代藩主頼宣の命による小堀遠州説と浅野家の上田宗箇説があります。1973(昭和48)年の庭園整備に先駆けた調査で、小堀遠州が作庭した江戸城本丸と二ノ丸間にある池と類似する点から、遠州説が有力視されました。

 庭園散策は、堀池に映る柳島や鳶魚(えんぎょ)閣に目がいってしまいますが、高台の山部分にも足を運んで下さい。ここには茶室「水月軒」と「聴松(ちょうしょう)閣」がありました。水月軒の東側の縁は懸け造りで、崖上に突き出した建物で、その下を滝が流れていたといいます。聴松閣は、藩主の座る御座の間と二・三之間からなり、西ノ丸離れ座敷と言われていたようです。

 西ノ丸には、能舞台や窯(かま)などの施設があり、風流・風雅を楽しむ文化圏となっていました。その中心に、書院と御座所。数寄(すき)屋と台所などの部屋を持つ西の丸御殿が、幕末の「御城内惣御絵図」に描かれています。しかし、初代頼宣が使用しただけで、以降の藩主は、城外に御殿を造りました。

 現在の西ノ丸御殿地は観光バス駐車場となって、多くの客を庭園回遊にさそっています。今も昔も西ノ丸は、おもてなしの場所であり、癒しの空間であることに変わりはないようです。

写真=西ノ丸離れ座敷「聴松閣」の跡

(ニュース和歌山/2017年12月2日更新)