南ノ丸と砂ノ丸を囲む石垣を「高石垣」と呼んでいます。『南紀徳川史』に「南ノ丸の縄張り(設計)は、藤堂和泉守(高虎)が見廻りに来た時、(安藤)帯刀と相談した」とあります。築城の名手として名高い藤堂高虎は、伊賀上野城(三重県伊賀市)に高さ30㍍余りの傾斜の急な高石垣を築いています。

 この高虎流石垣が、和歌山城西南部の高石垣に見られます。伊賀上野城の石垣の高さには及びませんが、どちらも美しさの前に崩れにくく、そして登れない石垣であることが原点にあります。

 高石垣は追廻門を挟んで北は西堀までと、南は不明門(あかずのもん)まで、ノコギリの歯のように屈曲し続いています。

 このように積まれていく構造を「横矢掛け」、単に「折れ」とも言います。これは中世の城から発達したもので、城壁となる土塁や石垣を登ってくる敵兵を、突き出した石垣上から横に矢を放てる仕組みです。その効果の高さと存在価値の重要性から、近世の城にも多く取り入れられるようになりました。

▲ノコギリ状の構造

 折れ石垣の間隔は、弓矢から鉄砲への進歩などによる射程距離に応じて変化していきますが、和歌山城の場合は、最短部で約30㍍、最長部で約65㍍もあり、かなり荒目のノコギリ歯です。当時の鉄砲の射程60㍍から70㍍を考えれば、石垣を登る敵兵を横から狙うことは可能だったと言えます。前面に堀を持たない箇所だけに、防御に気を使ったと思われますが、この折れ構造には、ほかの理由も考えられます。

 直線の長い高石垣は、前に倒れやすいので、所々を折れ構造にして、直線の区間を短くしながら、石垣を築いたというのが真相ではないでしょうか。電車で揺られている時、直立では倒れやすいですが、片足を一歩前に出すことで、踏ん張りが利いて力強く立っていられます。折れの採用で、石垣の強度を高め、横矢掛けにもなる。一石二鳥の「高石垣」だったのかも知れませんね。

写真上=屈曲して積まれた石垣

(ニュース和歌山/2017年9月16日更新)