「熊野古道の風景」始動

 江戸時代に作られた地誌書『紀伊国名所図会』のモノクロ絵図に彩色し、当時の風景を鮮明に蘇らせるニュース和歌山の人気連載が8年ぶりに復活します。「城下町の風景」「和歌浦の風景」に続く新シリーズは「熊野古道の風景」。過去2回同様、和歌山市立博物館元館長で関西大学非常勤講師の額田雅裕さんが解説し、和歌山市の芝田浩子さんが着色を担当、約200年前の世界へと誘います。

 『紀伊国名所図会』は、江戸時代の名所旧跡を絵と詞で紹介した、観光ガイドのような書物です。

 ニュース和歌山では、当時の様子をイメージしやすいよう、収録された白黒の絵図に芝田さんが色を付け、額田さんがそれを読み解く連載を3シリーズで掲載しました。2008~09年と14~15年が「城下町の風景」、10~11年が「和歌浦の風景」で、好評を受け、それぞれ書籍化。また、カラーにすることで情緒がにじみ出た絵図は、町歩きイベントや、テレビ、新聞の歴史特集で多数使われています。

 新シリーズ「熊野古道の風景」では、古道のうち、皇族や貴族が熊野を参詣する際に通った、紀伊半島を西回りする紀伊路の県内部分を紹介します。

 連載の第2回以降は毎月第4土曜号に掲載します。ぜひご愛読ください。

 新シリーズスタートにあたり、著者2人に聞きました。

──新連載の見どころは?

 額田「熊野古道は2004年に世界遺産となり、20年目です。名所図会には古道や、遥拝(ようはい)所と休憩所を兼ねた九十九王子だけでなく、周辺の植生、海、山など豊かな自然的景観、人々の生業(なりわい)、生活、寺社といった当時の文化的景観がこと細かく表現されています。これらをできる限り読み込んで紹介していきます。皆さんが古道の魅力を再発見する契機になれば」

──彩色ではどんな配慮を?

 芝田「図会に何が描かれているかを分かりやすくすることが私の仕事です。風景、自然や建物、人々を生き生きと塗り分けたい」

──最後に、読者へ一言。

 芝田「200年前の熊野古道、図会と今とは違う景色も、変わらない景色もあります。なかなか現地には行けないのですが、資料を見ながら彩色していきます。一緒に昔の古道を歩くように見ていただきたいですね」

 額田「これまでの城下町や和歌浦に比べると、熊野古道沿いの風景は、昔のままよく保たれています。行政機関だけでなく、宝物として保護してきた寺社、長い間、地域文化を大切に継承してきた古道沿いの人々のおかげです。これを誇りに思うとともに、今後も地域の人々が、熊野古道の風景と地域文化を守っていくのに少しでもお役に立てばと願います」

 

紀伊国の一の宮 ①日前宮・国懸宮

 

 上の絵は、江戸時代後期の日前宮、正式には日前国懸(ひのくまくにかかす)神宮(和歌山市秋月)付近の風景です。

 右下の入り口、反橋 (そりばし)を渡ると流鏑馬 (やぶさめ)神事を行う馬場があり、鳥居・惣門 (そうもん)をくぐると左に日前神宮、右に国懸神宮が坐 (いま)します。祭神は日前神宮が日前大神(日像鏡〈ひがたのかがみ〉)、国懸神宮が国懸大神(日矛鏡〈ひぼこのかがみ〉)です。また、日前宮は名草溝口神という水利の神も祀っています。このほか、境内には摂社・末社がたくさんあります。

 熊野古道から少し離れていますが、紀伊国の地主神のため、永保元年(一〇八一)には熊野参詣の途中で藤原為房が参拝しました。また、建仁元年(一二〇一)、後鳥羽上皇の熊野参詣では随行した歌人、藤原定家が代参するなど、中央の貴族や皇族が訪れました。

 日前宮の宮司を代々務める紀氏は、古墳時代には宮井用水を開削して紀の川南岸の平野を開発した豪族でした。宮井用水は当初、花山北麓を流れていた紀の川から直接取水し、周辺の耕地を潤していました。その用水を管理するため、日前宮は取水口付近に立地したと考えられます。

(ニュース和歌山/2023年1月3日更新)