和歌山市役所前の道路を隔てた所に、和歌山城で最も見ごたえのある城門構造がありました。かつては消防庁舎がありましたが、今は広場になっています。その広場が吹上口で、和歌山城の西ノ丸などに通じる橋と城門がありました。

 『紀伊国名所図会』に画で当時の様子が描かれていますが、その画を見てかつての面影を想像するのも難しくなっています。もし、吹上口に当時の石垣や水堀が残されていたなら、一ノ橋大手口(公園前)同様の光景が広がっていたはずです。それ以上だったかも知れません。

 現在、吹上口の広場前に説明板がありますが、その位置に水堀にかかる橋がありました。発掘調査で橋脚部分の基礎石が確認されています。この吹上橋を渡って左に折れると右に勘定門が控えていました。今はその門跡手前に鳥居が立っています。そのさらに北には、城内を直視されないように目隠しの石垣(蔀=しとみ石垣)が築かれ、その東隣には水堀に船が寄せられるように、雁木(石段)が設けられていました(上図参照)。

 吹上口は一ノ橋大手の荘厳な雰囲気とは対照的に、城内に物資を運び入れるなど賑わいと活気が感じられる場所だったとうかがえます。

 勘定門を横目に左(北)に折れると吹上大門が西ノ丸の玄関口として構えていました。今の「わかやま歴史館」の北東前方に南北方向に建っていました。

 勘定門跡の石垣は、西側と東側では積み方が違います。特に東側の石垣は、野面積みのように見えますが、加工された石も見受けられ、大変複雑な石積みです。その石垣の修復に関わる発掘で、勘定門上角(すみ)櫓台(図参照)から浅野氏の鷹の羽違い紋の瓦が出土したことから、すでに浅野期和歌山城の頃から、吹上口は重要な所であったことが裏付けられました。しかし、大正時代から堀の埋め立てが始まり、道路の拡幅や消防庁舎建設が進み、昔の城門構造が失われました。誠に残念なことです。

写真=勘定門跡西の石垣

(ニュース和歌山/2018年4月21日更新)