阪神淡路大震災では行政もかなりの被害を受け、震災直後は機能を十分果たすことができなかった。これをカバーしたのが民間ボランティア。社会人も学生も休みを返上して被災地にかけつけた。だが、震災から2ヵ月がたち、ボランティアのあり方も単なる食事の世話といった緊急支援的なことから、「いかに被災者の自立を助けるか」という二次的、三次的活動に移行している。(1995年3月25日号より)

紀の川河川敷で通信訓練する救援隊(95年8月)

 1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源に、マグニチュード7・3の激しい揺れで、6434人の命を奪い去った阪神淡路大震災。発生からほどなく、和歌山でも「何かできることはないか」と動く人々が現れた。
 ニュース和歌山は1月31日号1面で「避難所生活支援へご協力を訴えます」の見出しのもと、読者に現地でのボランティア活動の協力を呼びかけた。「県民ボランティア」として2月4日に第1便を送ったあと、3日に一度ずつ交代で救援に当たった。
 紙面を見て応募し、西宮に向かった海南市の宮本有里さん(42)は「ニュース和歌山を見て、何かしなくてはと仕事を休んで行きました。小学校で、トイレ掃除や全国から届いた物資の仕分けをした。リュックを背負って救援に向かう自分たちと、通勤中のサラリーマンの姿にギャップを覚えましたね」と振り返る。

今なお続く支援

震災で崩壊した神戸の町並み

 トラック運転手だった紀の川市貴志川町の森本佳代子さん(54)は、姫路への配送を終え、幼い子どもとともに和歌山へ帰る車中で地震に遭った。救出活動や負傷者の搬送に走り、その後、神戸と和歌山を何度も往復し、衣類や毛布などの物資をトラックで届け続けた。
 3月25日号の記事では、森本さんが眼科医や内科医など医師を集め、ボランティアグループ「サポート和歌山」として長田区役所前で炊き出しする様子を掲載している。
 森本さんの活動を知り、「現地には行けないが何か手伝いたい」と自宅に来た主婦らには、被災地に届ける衣類の洗濯などを手伝ってもらった。
 震災1年後から、依頼を受けて全国の学校や婦人会などで経験を話す。現在も支援活動を続け、休耕田を借り、家族を失い一人暮らしを余儀なくされた高齢者が作った農作物を和歌山で販売している。「本当なら子や孫に囲まれ幸せに生きるはずだったお年寄りたちが頑張っている。息の長い支援が必要です」と訴える。

明日は我が身

 被災地の惨状を目の当たりにした人からは「もし和歌山でこんな地震が起こったら…」との不安から、自分たちの身を守る防災意識が芽生え始めた。
 「和歌山で震度6以上の地震が発生した際に対応できるように」と地震発生一ヵ月後に立ち上がったのは、自衛隊OBらでつくる「和歌山民間救援隊」だ。
 元自衛隊員で初代事務局長を務めた松井駿介さん(73)は、発生1週間後に現地入りした時の光景を忘れない。多くの遺体、一階がつぶれた家屋、土に掘ったトイレ…。「この世のものと思えない光景が広がっていた。『明日は我が身や』と思いました」と話す。
 同じく自衛隊OBの窪井唯司さん(66)が会長となり、アマチュア無線の愛好家やヘリコプター、小型船舶、オフロードバイクの所有者ら150人が集まり、隊に分かれて訓練に乗り出した。
 3月25日号の記事で、窪井さんは「しっかりした救援組織があり、初期情報を正確に伝えられていたなら、こんなに犠牲者を出さずにすんだ」と語り、即時に活動できる救援隊の必要性を訴えている。
 松井さんは「『消防や警察に任せとけ』との声も多かったが、自助共助の考えができ、行政も動いた。2012年に解散したが、再び結成したいと考えています」と防災の未来を今も見据える。

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 「ニュース和歌山が伝えた半世紀」は毎週土曜号掲載です。

ニュース和歌山2014年8月9日号掲載