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 新和歌浦の観光開発を先導したかつらぎ町出身の事業家、森田庄兵衛(1862〜1924)が建設した2つの隧道(ずいどう。「トンネル」の意味)が路面電車用であることが、元和歌山大学客員教授の武内雅人さん(写真)の調べで分かった。『地方史研究第67号』掲載の論文で発表した。森田が描いた開発構想にも踏み込んだ議論を展開しており、専門家からは「和歌山だけでなく、近代日本の観光開発を考えるうえで意義深い」と注目が集まっている。

『地方史研究』に武内さん論文  森田庄兵衛 先進的な開発構想

トンネル内に残る配線設備

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 隧道は1911(明治44)年の竣工。第一隧道は、県道新和歌浦線の和歌浦漁港から高津子山方面へ至るトンネル南に位置し、全長53・88㍍、幅4・3㍍、高さ4・68㍍。第二隧道は、ホテル萬波へ上がる坂の下にあり、全長38・69㍍、幅4・52㍍、高さ4・3㍍。いずれもレンガ造りで、新和歌浦開発の歴史を物語る遺構として知られるが、文化財の指定はない。

 長らく歩行者用と考えられてきたが、調べると、第一隧道の天井に、電線を支える碍子(がいし)が東口から等間隔で2個ずつ奥へと続いており、架線を吊り下げるボルトも残っていた。第二隧道にも碍子の跡が確認された。また、これら配線の跡だけでなく、大正時代に造られた自動車用トンネルよりも天井が高く、トロリーポールを伸ばした路面電車に必要な高さであることも裏付けとなった。

 和歌山では、1909年に和歌山水電が路面電車を和歌山市駅〜和歌浦口間で運行を始めたが、電車は、電流を取り込むポールが1本のシングルトロリー型だった。しかし、隧道は、2本のポールを使うダブルトロリー用で、武内さんは「南海傘下の浪速電鉄はダブルトロリー型の電車だった。森田と南海の関わりは深く、この車両を走らせようとしていたのでは」とみる。

分譲別荘地とインフラ整備

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 森田は1909年に和歌浦から雑賀崎にかけて45㌶の土地を購入し、新和歌浦の観光開発に着手した。隧道を路面電車用とふまえ、1911年の「紀伊毎日新聞」の記事を読むと、〝運動場〟との表現で、森田が第二隧道西に分譲別荘地の造成を考えていたことが浮かび上がる。当時、神奈川県藤沢市や箱根など鉄道沿線で分譲別荘地開発は行われていたが、新和歌浦の場合、旅館や水族館、美術館を核にした分譲別荘地造成と、水道設備や路面電車などインフラ整備を同時に進める先進的な開発と分かってきた。

 武内さんは「計画は達成できなかったが、これらが進んでいれば和歌山市の歴史も変わっていたかも。隧道は森田が描いた夢の象徴物と言える」。

 和歌浦に詳しい米田頼司・和歌山大学元教授は「物証を通じ路面電車用と証明したのは画期的。この研究で、和歌浦の隧道は近代の和歌浦を考える要となった」と評価する。武内さんは「当時の和歌浦には夏目漱石、南方熊楠の影も見え、トンネルの背景には様々なストーリーの展開があった。レンガ造りのトンネルは歴史に誘う力がある。地域づくりに生かしてほしい」と望んでいる。

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 発表会「隧道が語る森田庄兵衛の新和歌浦開発事業」…4月12日(日)午後1時、新和歌浦の旅館木村屋集合。トンネルの見学と武内さんによる発表がある。無料。和大紀州経済史文化史研究所(073・457・7891)。

写真中=新和歌浦にある第一隧道、写真下=第一隧道に残る配線跡

(ニュース和歌山2015年4月4日号掲載)