太平洋戦争が終結した1945年8月15日から70年の節目をまもなく迎える。この戦争は和歌山でも各所で大きな傷跡を残した。あのころ、私は——。戦争体験者の証言を今号、8月15日号にわたり特集。今回は、県内3ヵ所での空襲体験を伝える。

和歌山 亡き姉が守った父の遺影 兵庫県川西市 島 美代子さん(80)

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 1945年7月9日、一夜にして和歌山市の市街地を焼け野原にした和歌山大空襲を経験しました。当時、紀の川河口近くの下町(げのまち)で母と姉2人の女4人で暮らしていました。兄は大阪で下宿しており、海運業を営んでいた父は、徴用先のフィリピンのジャングルで同年2月に戦死していました。

 9日深夜、B29の大編隊が和歌山市を襲い、私たち家族はパニック状態の人混みをかき分け逃げました。旧県庁跡があった東へ避難しようとしましたが、誰か男性が「東はあかんっ」と叫んだのを聞き、紀の川へ方向を変えました。

 川の近くまで来た時、12歳だった2番目の姉が突然、自宅方向へ引き返したのです。「なんで! どこ行ったんよぉ」と母と心配していました。焼い弾が雨のごとく落ち、辺りは火の海でした。しばらくし、姉は懐に父の遺影を抱えて帰ってきました。岸辺にたたずみ、家族4人で燃える街をぼう然と眺めました。

 その姉は、58歳の若さでがんのため他界しました。姉の一周忌の時、姉の友人から『一枚の写真』と書かれた手紙を受け取りました。姉が残した和歌山大空襲の手記でした。手記から、姉が燃え盛る火の中、命がけで父の写真を取りに戻ったこと、その時、姉の防空頭巾は燃えており、水をかぶり一命をとりとめたことを知り、胸が熱くなりました。

 父の遺影は、空襲で家も学校も全て失った私たち家族に唯一残されたものでした。たった1枚の写真に支えられ、戦後の混乱を生き抜いて来れました。私は今年80歳を迎えました。戦火を免れ、今の恵まれた暮らしがあるのも、父が守ってくれたからだと感じます。逃げようとした旧県庁跡は炎に包まれ、大勢の人が亡くなりました。避難中に聞こえた「東はあかんっ」と叫んだ男性の声は、父だったのではと思うこともあります。

 あれから70年、毎年8月には、お盆休みで遊びに来る孫たちに姉の手記を読み聞かせています。戦争で命を落とした多くの人の犠牲のうえ、今があることを忘れずに毎日を生きていきたいです。

岩出 子どもを襲った機銃掃射 岩出市新田広芝 馬谷 宏さん(83)

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 岩出市の上岩出地区で生まれ育ちました。9歳のころに太平洋戦争が始まり、学校の授業はなくなり、竹やりでわらを突き、空襲に備えた避難訓練などになりました。運動場はさつまいも畑に変わり、出征で男手が足りない農家へ手伝いに行きました。

 戦争末期のある日、地元で「地蔵池」と呼ばれる池で友だち数人と一緒に泳いでいました。夏の暑い日で、娯楽が少なかった当時、川や池でよく泳いでいたのです。「バババババババ!」。突然耳をつんざくような音が響き、プロペラ音が遠ざかっていきました。おそらく航空母艦から飛び立ったグラマン(戦闘機)の機銃掃射でしょう。思わず潜って身を隠し、池の底に突き刺さる銃弾を目にしました。しばらく水草の茂みに隠れ、生きた心地はしなかった。田んぼばかりだった田舎でまさか襲われるとは思ってもおらず、数日は外を歩くのも怖かったです。私以外にも、旧国道24号(現在の県道14号和歌山打田線)で馬車が襲われ、人が亡くなったと聞きました。

 終戦の1週間前、志願兵に応募しましたが、体が小さかったために兵士になれませんでした。戦争が続き、米軍が本土へ上陸してきたら、戦っていたかも知れません。今から思うと、竹やりで勝てるわけはなかったのです。軍国主義の教育を受けていた私は、国のために命を捧げるのが名誉だと思っていました。

 8月15日、近所のラジオがある家で玉音放送を聞きました。命を狙われることがないと思うと、安心しました。池は現在、一部が埋められ、草が生い茂って泳ぐことはできなくなっています。近くを通ると当時を思い出します。

写真=機銃掃射を受けた池のほとりで

海南 知られざる藤白山の空襲 海南市鳥居 平岡 繁一さん(82)

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 終戦当時、中学1年だった私は、自宅のある海南市鳥居から和歌山市内の学校まで、市電で通っていました。玉音放送はその学校で聞きました。雑音がひどく、音声が聞き取りにくかったのですが、戦争が終わったことは分かりました。

 その年、海南市では7月2日午後10時ごろ、日方地区にB29が侵入し、十数発の空爆で44人が命を落としました。ほとんど知られておりませんが、実は同じ日の同じころ、私の住む鳥居地区でも空爆がありました。自宅の裏山にあたる藤白山はびわ畑が広がっていました。父の畑もありました。その山中に約10発の爆弾が投下されたのです。

 時間にすると6秒か7秒ぐらいだったでしょうか。大雨が降るような「シャー」という音に続き、「ドーン!ドーン!」と爆発音が響き渡りました。あまりの恐怖に家で布団をかぶり、ただただおびえていました。夜の山中、幸い人がおらず、犠牲者は出ませんでしたが、なぜこんな場所をねらったのかは不思議です。送電用の鉄塔があったため、レーダーが反応したのかもしれません。

 後日、見に行くと、山中には5㍍ぐらいの穴が複数あり、その周りに50~60㌢の大きな石がいくつも転がっていました。後に散乱する爆弾の破片を集め、別の日のグラマンによる機銃掃射の薬きょうを拾い、リンゴ箱に入れて保管していましたが、金属類が貴重だった戦後、親に鉄くず屋へ売ってしまわれていました。今も残念に思いますよ。

 7月9日の和歌山大空襲もこの裏山から見ました。焼い弾は花火のようで、和歌山城の天守閣が焼け落ちるのも分かりました。私たち子どもが話していると、「大きな声を出すな! ねらわれるぞ」と大人たちにしかられました。山中の会話が敵に聞こえるはずもないのですが、その程度の知識だったんでしょうね。

 この山には江戸時代、竜興寺というお寺がありました。寺が存在していたことを示す石碑は爆撃で吹き飛ばされましたが、戦後、碑の上部だけが離れた谷川で発見され、元の場所に戻されました。戦争の傷跡は今もこんな山の中に残っています。

写真=空爆で上部だけ残った石碑は今も山中にある

 (ニュース和歌山2015年8月8日号掲載)