戦時中、大阪を守るために組織された護阪部隊に所属し、戦後半世紀以上にわたり社会奉仕活動に打ち込んだ和歌山市の野村晴一さん(90、写真)が11月、自身の経験をつづった『私の履歴書』を自費出版した。「大正、昭和、平成と3時代を生き抜いた波乱万丈の人生の一部ですが、和歌山で見聞きしてきたことを記録できました。地元の歴史の一端にふれてほしい」と望んでいる。

nomura 野村さんは1926年生まれ。同市北新の酒屋に生まれ、本町小学校の前身となる始成小学校、県立和歌山商業学校を経て19歳で護阪部隊に入隊した。まもなく和歌山大空襲、終戦を迎え、戦後は酒屋を切り盛りしながら、青少年の非行防止と防犯活動に59年、交通指導と消防活動に57年携わり、保護司を20年務めた。

 昨年3月末で社会奉仕活動から身を引き、これまでの経験を次の世代に伝えようとペンをとった。

 平和への願いを込めたのが戦争経験。終戦間際、護阪部隊として孝子峠でトンネル掘りに明け暮れ、松江地区の海岸で竹やりの先に爆弾をつけて特攻訓練したことを記し、「米軍の戦車が上陸すると、お国の盾にならねばと思っていました」。空襲の際、貴志小学校近くで共に避難していた戦友に焼夷(しょうい)弾が直撃、即死した。「命を軽視する戦争は二度とあってはならない」と力を込める。

 社会奉仕活動では、小学6年の時に本町4丁目で交通死亡事故を目の当たりにした経験が後の交通安全運動への原動力になったこと、74年に全国2番目となる交通少年団を本町地区に立ち上げ、人形やかるたを作って啓発に取り組んだことを挙げた。このほか、『青少年健全育成の歌』の制作、更生の一助にと25年間続けた受刑者への差し入れなど奉仕活動に込めた情熱や背景にある社会情勢をつづった。

 野村さんは「悲惨な戦争を乗り越え、これまで活動を続けられたのは博愛の精神があってこそでした」と振り返る。今後は、「太平洋戦争開戦直前まで戦争回避に向け奔走(ほんそう)した和歌山出身の野村吉三郎の功績を伝えたい」とさらなる意欲を見せる。

   A5判、127㌻。非売品で県立図書館、和歌山市民図書館で閲覧可。野村さん(073・433・1135)。

(ニュース和歌山2016年12月14日号掲載)