20170101_6a 生物学、民俗学、博物学、天文学と多方面に業績を残した南方熊楠。生誕150年を迎える今年、「和歌山市生まれの熊楠」を市がアピールする。孫文との交流を描いた演劇、ゆかりの地を巡るフィールドワークを通し、熊楠を育んだ市の歴史、風土を広く知ってもらう考えだ。

 

米英で研究後 田辺市に定住

 熊楠は明治維新前年の1867年、和歌山市橋丁に生まれた。雄小学校(現・雄湊小学校)、和歌山中学校(現・桐蔭高校)から東京大学に進むが、中退し渡米。その後、イギリスに渡り、大英博物館を足場に研究を続ける。帰国後は田辺に居を構え、熊野で採集した植物の研究に没頭。また、神社合祀令反対運動、粘菌に関心の高い昭和天皇へのご進講、神島の史跡名勝天然記念物指定に尽力と活動を続けた後、75歳で生涯を終えた。

 白浜に記念館が建ち、田辺の自宅は顕彰館となった。田辺時代の活動が後年、「エコロジーの先駆者」と評価されたことで、「熊楠=田辺」のイメージが定着した。だが、熊楠の原点は、和歌山市なのだ。

 

和漢三才図会105巻書写20170101_6b

 生家は現在の南海和歌山市駅の南徒歩5分ほどで、生誕地に胸像が建つ。幼いころ廃藩置県が行われ、紀州藩は消滅し和歌山県が誕生。町は新しい空気に満ちあふれた。

 雄小学校では友人宅で百科事典『和漢三才図会』に出合う。動植物の生態を始め、天文、地理、芸能と幅広い内容に魅せられた。別の同級生の家でも図会を見つけ、読みあさる。この様子を漫画家、清水崑(こん)が表現。「図会を読んでは覚えて帰り、家で書き写した」との逸話が残る。真偽はともかく、105巻もある図会全巻を筆写した。

絵=少年読書の図(清水崑)

 

学問基礎育む城下町の環境

 小学校から卜半丁や本町の私塾で素読、漢学に親しんだことで、漢語の図会を読めた。現在の県立博物館辺りに新設された和歌山中学校では、博物学者の鳥山啓(ひらく)に師事。鳥山が管理する一番丁の県植物場に出入りし、現在の県庁周辺や秋葉山、和歌浦で動植物の採集に力を入れた。

 珍しい百科事典や、力のある研究者が身近だった。『闘う南方熊楠』の著作がある和歌山市の学芸員、武内善信さんは「紀州藩廃止で、士族が学校に職を求め、また、私塾を開く人もいた。御三家の城下町だった環境が、熊楠を育んだ」と話す。

 和歌山市は、演劇やフィールドワークを通じたPRを計画中。この活動で、「熊楠といえば〝和歌山市〟」は実現するか。

写真・絵=南方熊楠記念館提供

 

原点はシティボーイ

南方熊楠記念館 谷脇幹雄館長

 熊楠を語るキーワードは、「国際性」「学際性」「在野性」の3つ。

 「国際性」では、19歳から14年にわたり米英に遊学、大英博物館の蔵書に親しみ、科学雑誌ネイチャーへ投稿を繰り返します。日本の伝統を重んじつつ、西洋の考えを取り入れる。同様の考えの孫文と意気投合。多くの外国人と交流を深めました。

 「学際性」では、粘菌を中心とする生物学を筆頭に、博物学、本草学、民俗学と幅広い分野で業績を残しました。これは『和漢三才図会』の書写で得た知識のたまものです。

 「在野性」も、疑問に感じたことは、自ら確かめるのが基本。熊野の可能性にひかれ、生涯を通じ現場で採集した粘菌や植物の研究論文を発表しました。

 熊楠が様々なことに興味を持ったのは、当時全国8番目の大都会だった和歌山市の中心部で育ったことが大きい。百科事典や辞書にふれ、和歌山中学では研究者から薫陶を受けることができた。最先端の町で育った「シティボーイ」が熊楠の原点だったからこそ、熊野の素晴らしさが分かったのです。

 熊楠の足跡をたどれば、現代人が持つべき3つの視点の再確認につながると思います。

 

演劇ゆかりの地巡り PRへ事業あれこれ

【和歌山市関連記念事業】

◎熊楠関連図書展示=1月4日(水)〜12月、和歌山市民図書館。

◎演劇熊楠と孫文〜熊楠が孫文に伝えた世界=2月5日(日)午後1時、和歌山市民会館。無料。同市出身の岡本高英主演。先着600人。

◎フィールドワーク=和歌山市内のゆかりの地を巡る。(日時未定)

◎純米酒南方=熊楠の父が創業した南方酒造(現・世界一統)が、生誕150年を記念し2月に発売。

20170101_6c【南方熊楠記念館(白浜町)

◎熊野・熊楠を愛するアーティスト展=3月19日(日)〜8月31日(木)、清水崑や水木しげるらの絵を展示する。

 ※初日の3月19日、新館がオープン。1965年建設の本館から文献、標本類を移して展示すると共に、太平洋に突き出た番所山の山頂という地形を生かし、自然学習の拠点となるフィールドミュージアムとして活用する。記念館0739-42-2872。

写真=文献、標本類は新館で展示

(ニュース和歌山2017年1月1日号掲載)