池と岩盤 古代入江残す可能性 藤本清二郎和大名誉教授が指摘

 和歌の浦ガイダンス施設として和歌山市が整備を進める「旧福島嘉六郎邸」(同市和歌浦中)の池、岩盤部分が江戸期以前の形跡である可能性が高まった。『和歌の浦・玉津島の歴史』などの著書がある藤本清二郎和歌山大学名誉教授が江戸期の襖絵と照合し確認した。一帯は長く私有地だったため調査できなかったが、藤本名誉教授は「信仰の地玉津島の原型を留める。国名勝を構成する文化財に追加し、保全を図るべき」と話している。

旧福島邸の池の西と中部は、古代からの地形を取り込んで池に改造した可能性も

 旧福島邸は1929(昭和4)年の建築。和歌山綿布の社長、福島嘉六郎氏の別荘で、母屋と離れからなり、池を挟んで西側に奠供(てんぐ)山の伽羅(きゃら)岩を仰ぎ見ることができる。

 藤本名誉教授は以前から国土基本図で、この一帯の山際を東西に走る細長い水路状のものが図示されているのを確認していたが、現地を見ることはできなかった。しかし、市の歴史的風致維持向上計画で、ガイダンス施設へ活用するため一帯が市の土地となり、検証が可能となった。

 藤本名誉教授は、1615年作成の「名古屋城本丸対面所襖絵」との符合を認めた。襖絵は、玉津島への貴族の参拝を題材にし、社殿や奠供山、鏡山と、当時の水辺が描かれている。奠供山の山すそまで入江状に水が来ているのと、現在の池の形状が重なっており、藤本名誉教授は「入江は少なくとも中世以前からあり、次第に狭まって近代に池に改造されたと推測される。岩盤に沿う細長い形状は古代からの地形の可能性が高い」と見る。

「名古屋城本丸対面所襖絵」中央の入江。現在の池と重なる(藤本清二郎著『和歌の浦・玉津島の歴史』より)

 また、池中、池西から奠供山の東麓まで岩盤が続くのも確認。奠供山は、聖武天皇がここを訪れた724年当時、外海に面し、この部分は磯の名残りと見られる。「万葉集に『沖つ島荒磯(ありそ)の玉藻潮干(しほひ)満ちてい隠(かく)りゆかば思ほえむかも』と詠われた景観を彷彿させる地。玉津島の原風景と言っていい最重要地点で、これまで見過ごされてきた」と指摘する。

 2010年に和歌の浦が国指定の名勝となった際は、旧福島邸一帯は構成文化財の対象とできず、未指定のまま。和歌山県文化遺産課は「貴重な指摘を頂いた」とし、市が進める事業とかかわるため、まずは市の方針を待つ方向だ。藤本名誉教授は「和歌の浦の根本の場所と再認識するべき。遅きに失した感もあるが、名勝に加えるのはそう難しいことではないのでは」と期待している。

(ニュース和歌山/2021年2月20日更新)