「1」に対する強い思い

 プロから何度もラブコールを受けながら、「オリンピックで金メダル」を目標に社会人野球を続けた杉浦正則さん(55)。橋本高校時代はエースとして2年秋の新人戦、3年春の県大会を制し、夏は優勝候補筆頭だったが、2戦目で惜しくも敗れた。同志社大学と日本生命で日本一を経験し、オリンピックには3回出場。社会人でのプレーを貫いた「ミスター・アマ」が、球児にエールを贈る。

 

11人で箕島下し新人戦初優勝

 

──高校時代、印象に残っていることは。

杉浦 2年夏の大会後、部員は9人だけでしたので、野球経験者2人を他部から呼び、新人戦に11人で出場。決勝で箕島に勝って優勝したことです。また、3年春の近畿大会前、センバツでベスト4に入った上宮と練習試合をしました。強いチームとするのは初めてで、初回にこちらのミスで1点取られながら4−1で勝ったのもうれしかったです。

──3年夏は優勝候補の筆頭でした。

杉浦 初戦の田辺商は終盤までノーヒットノーランをしていましたが、4−0から4−4に追いつかれ、延長16回にサヨナラ勝ちしました。ですが、2戦目の耐久戦では0−1で敗退。6回に1アウトから3塁打が出たのに、点を取れませんでした。とにかく打てませんでした。甲子園…、出たかったですね。

──大学で日本一に。

杉浦 3年ごろから勝てるようになってきました。立命館に長谷川滋利投手(オリックス、エンゼルスほか)がいて励みになり、4年秋の大学リーグ優勝決定戦で投げ勝ちました。続く明治神宮大会は準決勝、決勝に登板し、優勝できました。

 

五輪〝金〟目標にアマチュア貫く

 

──大学からプロへとは思わなかったのですか。

杉浦 (プロに進んだ)長谷川投手がすごすぎた事と、明治神宮大会後の4年秋に社会人主体の全日本チームに呼ばれ、山中正竹監督の「このチームでバルセロナ五輪で金メダルを取る」との発言に「ビビッ」ときたからです。五輪に出られるのはアマだけなので、日本生命に進み、2年後に金メダルを取って、プロに行こうと考えました。

──バルセロナ五輪後、プロに進みませんでした。

杉浦 五輪では準決勝で途中から投げ、打たれて負けてしまいました。「4年間築き上げてきたモノを自分が壊してしまった」と苦しみ、「金メダルを取る」ため、社会人野球を続けると決めました。

──次のアトランタでは。

杉浦 2大会連続出場は自分だけで、大学生もいる若いチーム。最初は負けが込んでいましたが、そこで「勝ちたい」気持ちがチームに生まれ、まとまってきました。普段からトーナメントを戦う社会人は、「どうすれば勝てるか」を分かっています。ゲームをする中で、大学生にも気持ちが伝わっていきました。1球の重み、1敗の重みと、「1」に対する思いを社会人は持っています。ただ、決勝のキューバ戦で序盤から失点し、一度は追いついたものの、最後は押し切られて銀メダルでした。

──シドニー五輪にはプロが参加しました。

杉浦 プロが加わった初めての大会。キャプテンとしてプロとアマに溝ができないよう、遠慮しないで思いを語り合う場を設けました。準決勝でキューバに敗れ、3位決定戦で韓国に敗れた時、プロもアマも全員が涙を流すのを見て、「一生懸命やった証。1つのチームになった」と感慨深かったです。

──シドニー後に引退し、日本生命でコーチ、監督を4年ずつ務めました。

杉浦 コーチになり、それまで感覚で進めてきたことを、選手に伝えることの難しさが分かりました。選手への接し方、特に言葉の使い方を勉強しました。迷った時、指導に来てくれていた元阪神タイガース投手だった山本和之さんのやり方を見て、言葉の引き出しを増やしていきました。監督では、4年間とも都市対抗と日本選手権に出場し、日本選手権で準優勝1回、ベスト4も1回ありましたが、チーム作りの難しさも痛感しました。

──今の高校生をどう見ていますか。

杉浦 技術力は高く、体格も良い。度胸もあります。一方で、情勢が悪くなった時、気持ちの切り替えが遅いと感じる事があります。真面目で、言われたことはしっかりする反面、何をしてくるか分からない人は、昔の方が多かったように思います。

──高校生にひと言。

杉浦 野球は失敗する事が多いスポーツです。3割打者でも7割は失敗。試合中は、ポジティブに考えると勇気を持てます。「できる」と信じ、失敗を仲間でカバーし、ゲームセットがコールされるまで全力で取り組んで下さい。

──なお、野球人口が減る中、監督を退任した後、個人や会社で野球普及活動はしていますか。
杉浦 野球だけではありませんが、会社として次世代育成に取り組んでいます。野球や教室、陸上の桐生祥秀によるかけっこ教室などです。学校への出前授業もしています。

──ありがとうございます。

(ニュース和歌山/2023年7月8日更新)