今秋、名草戸畔(なぐさとべ)を題材にした演劇が2劇団によって上演されました。ゆかりの地を歩くウォークも再三開かれ、名草が地元の歴史を語るうえで欠かせなくなっています。

 名草戸畔は、縄文時代から西暦200年ごろまで名草山を中心に和歌山市から海南市までを治めた首長と伝わります。『日本書紀』の「神武東征」の項に「軍、名草邑(むら)に至る。則ち名草戸畔といふ者を誅(ころ)す」とあるだけで、地元でも忘れられつつありました。その中、作家のなかひらまいさんが郷土史家の小薮繁喜さんとの出会いを通じて調べ、5年前に『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』(スタジオMOG)を出版、今へ至る流れをつくりました。

 本の影響で宇賀部神社ら名草戸畔ゆかりの地を歩く人が増えました。私もその一人です。印象に残ったのは吉原の中言神社です。中言神社はかつて名草山を囲むように15社存在し、現在は吉原を含む3社が残ります。岩の前に立つ同神社の祠(ほこら)の素朴なたたずまいからは、自然の背後にあるものをたえずくみ取ろうとした古代人の感受性を垣間見ます。なかひらさんの著書の議論は、神話時代を射程に多岐にわたりながら、実際に歩くと、ゆかりの史跡あり、感覚的に迫るものありと参照が可能で、想像力が刺激されます。

 名草戸畔を題材とした劇団ZERO、劇団KCMの公演も注目を浴び、劇団ZEROは来年、「名草姫」を再演するそうです。2劇団とも名草の民と皇軍の戦い、名草の民がとる選択が物語の山場でした。この点は、なかひらさんの著書では、小薮さんの史料をふまえ、「名草戸畔は降伏し平和に生き延びた」との見方、宇賀部神社の宮司家の血をひく小野田寛郎さんの口伝から「負けず、追い払った」と『日本書紀』と違う見方を示しています。私は「負けなかった」との見方が地元を鼓舞するものに感じられ好きですが、いずれにせよ、名草戸畔の伝承は、和歌山という閉じた空間だけではなく、日本の歴史や今見直されるべき平和や自然といった価値観の地平で、打ち出せる強さがあります。物語として再び語り直されることを、伝承が今後も求めてくると思うのです。

 今年、名草はそういった新たな表現を生み出す母体になったと言っていいのではないでしょうか。眠っていた伝承がこんな形で目を覚ましたこと自体、既に大きなドラマですが。 (髙垣)

(ニュース和歌山2015年11月28日号掲載)