羽柴(のち豊臣)秀吉の大軍が紀州にやってきたのが1585(天正13)年の3月も末に近い頃。それを阻止しようと当時信長や秀吉に抵抗を続けていた雑賀・太田軍は、太田城(和歌山市太田)に立てこもりました。

 これに対して秀吉は、太田城の周囲に堤を築いて、水攻めの準備を整え、4月から水を引き入れたと伝えられています。その名残の堤が同市出水に一部残されていますが、この築造に1万人を動員して、昼夜の工事で数日の内に造り上げたと言われています。この行動力は、秀吉の権力と財力を相手方に見せつけ、戦う気力を失わせる効果は十分にあったと思われます。秀吉が合戦でよく使う得意の心理作戦です。

 ほぼ紀州を平定した秀吉は、反秀吉の残党を抑えるため、再度、豊富な財力と動力、そして、権力を周囲に見せつけるため、短期間で城を築く必要があったのです。

 築城には、堤造りに参加した人々を再び動員して、自らの縄張り(設計)で、築城の名人と言われ、のちに大坂城の石垣などを手がけた藤堂高虎や羽田長門守、一庵法師を普請奉行に任命して、その年の内に、本丸と二ノ丸の土木工事を終えたと『紀伊続風土記』は伝えています。

 紀州平定を確信した秀吉は、当時の人々が憧れていた和歌の浦に出かけて歌を詠んでいます。「打ち出て 玉津島より眺むれば 緑立ちそう 布引の松」と草木を従えて立つ松を自分にたとえて、公家たちに自分の偉大さを知らしめようと詠んだのではないかと言われています。そうだとすれば、「天下人は秀吉である」と歌でアピールをしたのかも知れません。

 完成した和歌山城を秀吉は、弟の秀長に守らせるつもりでした。ところが秀長は、本拠地の郡山城(奈良県大和郡山市)から動こうとしなかったのです。やがて秀吉は大坂に戻り、名目上和歌山城は、秀長の居城ということになるのですが、実際は城主のいない和歌山城となってしまったのです。

写真=太田城方向から和歌山城を眺める

(ニュース和歌山より。2017年4月1日更新)