城代として入城した桑山氏は1586年から15年間和歌山に在城します。その間も城の工事は当然進められていたと思われます。虎伏山の本丸・二ノ丸に加えて、東南ふもとの平地に、曲輪(くるわ=区画)を設けて、城の正面にあたる大手門を設けました。以後、2代目一晴の時代まで、和歌山城の大手門は、現在の岡口門の位置に築かれていたと考えられています。

 当時の大手門がどのような形式だったかは分かりませんが、現在の岡口門を往時の門と仮定してくぐってみましょう。狭い城門の空間から、一気に石垣と塀で囲まれた方形の広場が前方に開けます。

 この広場を、枡(四角い器)の形になぞらえて「枡形(ますがた)」と言います。もちろん、「枡」ですから、水を入れて漏れたりするとその役割は果たせません。したがって、枡形には、漏れない構造が必要なのです。つまり、侵入した敵を逃すことなく、追い詰める役割が枡形に求められるのです。


 大手門を背に、枡形を見渡すと右手に城門(現在の岡中門の場所)がありました。その門扉は閉じられて、行く手を阻まれます。さらに左手(西側)は、今は童話園・水禽園に通じる道ですが、当時は石垣でふさがれていました。それでは、入って来た大手門へ戻ろうとすると、門扉はすでに閉じられています。このように枡形に入ってしまうと逃げ場がなくなるばかりか、四方の石垣上や櫓から矢や鉄砲で攻められるという恐怖の広場に転じてしまうのです。この構造は、のちに城門に採用され、敵の侵入を枡形門で阻むように造られていきます。

 岡口の枡形は、北側以外は、水堀にも囲まれた石垣と二重の構えでした。この堅固な守りで侵入を防ぎ、敵を大手門に誘い込みます。万一、大手門が破られても、枡形が待ち受けています。守りの知恵も二重だったのです。

 現在、枡形内には、様々な時代の石積みが歴史を伝えていますが、戦いを意識した頃の構造はそのまま残されているのです。(毎月第1・3土曜号掲載。次回は6月3日号)

写真=写真上=城内からみた岡口枡形/同下=枡形の図

(ニュース和歌山より。2017年5月20日更新)