「天守閣」の呼称は、明治時代以降のことで、本来は「天守」と言います。そのイメージは白で、黒を連想する人は少ないかも知れません。それは、和歌山城の天守が白いからで、熊本城や松江城のように黒い天守がそびえている町の人々は、黒色を頭に描くことでしょう。

 1600(慶長5)年の関ヶ原合戦前後の天守は、板張りの黒い建物が当たり前でした。黒漆(うるし)に金箔や赤の漆を塗って鮮やかな建物にしたのが織田信長の安土城であり、豊臣秀吉の大坂城でした。総白漆喰(しっくい)の真っ白い天守の出現は、もう少しあとになってのことです。

 秀吉築城当時の和歌山城に、天守が存在したかどうかは分かっていませんが、浅野氏が天守と呼ぶにふさわしい大きな建物を築いたことは間違いないようです。その外観は、和歌山城西ノ丸の「わかやま歴史館」内に展示されている「天守起シ図」で見ることができます。

 「天守起シ図」は、四辺が起き上がり、サイコロのような立体になる天守の絵図です。この絵図は、1717(享保2)年、当時江戸にいた六代藩主宗直(むねなお)に、天守の改修を説明するために作成されたもので、側面に板張りの黒い天守が描かれています。このような「起シ図」は、江戸城などにも伝わっていますが、和歌山城のように、四面が起き上がる絵図は、大変珍しいものです。ぜひ、足を運んで実物をみてください。

 浅野氏は、大天守と渡櫓(わたりやぐら)で連結した小天守を、櫓や門を多門櫓という長屋のような建物で結ぶ連立式の天守を建てました。その真ん中にできる空間(中庭)には、食料や武器などが納められる蔵も建てられ、籠城に適した構造に仕上げていたのです。その容姿は、現在の天守とほぼ同じと考えられていますので、外壁の白壁を板張りに想像して眺めてください。戦国時代の黒い天守が浮かんでくることでしょう。

写真=浅野期天守のイメージ図

(ニュース和歌山/2017年7月1日更新)