熊野古道の写真を30年以上撮り続ける海南市の写真家、大上敬史さんによる土曜号連載「わかやま滝物語」。新春特別版は、〝めでたい滝〟として、白浜町の「祝(しゅく)の滝」を紹介します。また、大上さんに滝の魅力と、連載を通じて伝えたいことを尋ねました。

 1983年発行の『ひきがわのむかしばなし』によると、戦国時代、久木村(現白浜町)の領主、小山隼人に「祝(しゅく)」という名前の姫がいた。隼人は、祝が田野井村(現同町)の豪族、田井筑後守へ嫁ぐとき、多くの嫁入り道具の一つとしてこの滝を持たせたという。

 祝は嫁ぐ前、村で広がった疫病にかかり、顔にひどいあばたができて床に伏した。ある夜、隼人の枕元に三ヶ川の滝の主が現れ、「田野井村の池の大蛇に争いを仕掛けられている。退治してほしい」と懇願された。早速、筑後守に伝え、大蛇を退治すると、再び滝の主が枕元に現れた。「病を治すには、真夜中に白装束で三ヶ川の滝壺に入り、一刻ばかり(約2時間)滝に打たれよ」。言葉通り、隼人は祝を滝へ連れて行き、滝壺へ入れると、あばたがすっかり消え、輝くような美しさに戻っていた──。

 当時、姫が嫁いだ先で金に困らないよう、収穫した米が姫のもとに送られる「化粧田」という田んぼがあった。田は嫁ぎ先のものにはならず、生涯、姫のお化粧料として米が献上されるのだ。とすると、この滝は「化粧滝」と言えるのではないか。化粧田が米なら、化粧滝は何を献上するのだろう。滝の意味を考えた。

 滝は、神を遷(うつ)すご神体である。特にこの滝は、熊野古道大辺路ルートの富田坂、安居(あご)辻松峠を越えたところにある、まさに神仏が宿る神々の座なのである。

 そもそも滝は、地殻変動で形成された岩盤に雨が降りそそぎ、川となって流れ落ちるところにできる。剣のようにとがった岩盤は、大きな滝壺を形成し、千年、万年の歳月をかけて再び平坦な土地へと〝治癒〟してゆく。そうしたダイナミックな自然の営みの中に紀伊半島があるのだ。古代の人々は自然界における滝の存在を深く理解し、「神の遷すもの」との考えを魂に宿してきた。

 滝壺には、滝の主が棲(す)んでいて、時々怒ったり、泣いたりしてわれわれを驚かせる。古代日本人は、滝の前で、踊ったり、唄を歌ったりして和ませようとしてきた。

 荒ぶる日本の神々。八百万の神々というのは、すなわち八百万の滝たちではないだろうか。

 

「和歌山を滝王国へ」 大上敬史さんインタビュー

──撮影時のこだわりは。

 3時間以上かけて歩かないとたどり着けない滝もあります。森や渓流を進んでいくと、パッと空が開けるんです。滝を中心に空間が広がり、ほこらのようなものもあります。撮影時はそういった周囲も入れ込みます。

──滝と人のかかわりに注目しているんですね。

 はい。古くから那智の滝をはじめ自然を崇(あが)める文化があります。滝も信仰の対象であったと考えられます。しかし、人口が減り、過疎化が進む中でそういった文化が廃れ、滝を見守る人も減りました。

──強調したいことは。

 熊野古道の保全や観光施設の整備も必要ですが、過疎化が進む田舎で代々、山里や滝、風習を受け継いできた人たちの暮らしを守ることが大切。生きた文化は観光資源になるはずです。

──今後の抱負を。

 滝には歴史と文化の蓄積があります。そういった視点から滝を見直すと、単なる癒やしスポットではなくなります。和歌山を、全国から癒やしや祈りの時間を求めて訪ねてくるような「滝王国」にしたいですね。

(ニュース和歌山/2018年1月1日更新)

大上敬史さん作製「和歌山県の滝」で、県内の滝が紹介されています。