一ノ橋の大手門から西に、月見、物見、駿河といった櫓台(やぐらだい)などの石垣が水堀に沿って続いています。車窓から見えるその石垣は、それまでの街の風景から一転します。その内側が二ノ丸で、徳川期には、約百棟の建物が軒を並べていたところです。

 二ノ丸は、徳川期の藩政の中心でしたが、それまでは、虎伏山頂の東峰(現在の本丸御殿跡)にありました。豊臣期の頃の様子はよくわかりませんが、浅野期には、御殿が建てられていました。その規模はさほど大きいものではなかったようですが、敷地の四隅に櫓を建て、長屋や馬屋まであったと言います(『和歌山城史話』)。

 徳川期になると、山上の二ノ丸は不便で、狭かったのでしょうか、浅野氏の居住地であった「御屋敷」の平地に移しました。御屋敷は、現在の二ノ丸広場の3分の2ほどの広さだったので、西側の堀を一部埋め立てて拡張しました。そこに建てられた御殿は、東側から面会や儀式などを行う表(おもて)、藩主の居住空間の中奥、そして、側室や奥女中の生活場であった大奥に区分けされていました。大奥は男子禁制のうえ、領主以外は入れない場で、中奥との境に仕切り塀があり、御錠(おじょう)口と呼ばれる通路からしか入れませんでした。

 この表・中奥・大奥の配列は、大きさこそ違うものの、明らかに「江戸城」の本丸御殿を意識したものと思われます。違いは、大奥と天守が接していた江戸城に対し、和歌山城は橋で西ノ丸と結ばれていたことです。しかし、橋は今の御橋廊下(12月16日号掲載第20回)の形状だったかどうかはわかりません。 

 明治に入ると新政府の方針で、全国のお城は取り壊されていきます。その中で、和歌山城二ノ丸御殿の一部は、大阪城天守閣前に移築され、1947(昭和22)年の焼失まで「紀州御殿」の名で残されていました。

 現在の二ノ丸は、1982(昭和57)年に、「鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)」絵巻のサル、ウサギ、カエルなどの遊び姿を模したといわれる岩々を置いた庭園に整備されました。 

写真=現在の二ノ丸全景

(ニュース和歌山/2018年1月6日更新)