和歌山城大天守は、小天守と2基の櫓を多門櫓で結んだ構造で、これらの建物をまとめて天守群と呼んでいます。その入口にあたる天守二ノ門(楠門)をくぐって、石段を登ると天守群の建物に囲まれた「天守曲輪」と呼ばれる中庭に出ます。この形式は、姫路城(兵庫県)、伊予松山城(愛媛県)と共に、三大「連立式天守」として知られています。

 天守群は、渡櫓で連結した大天守と小天守を中心に、乾(戌亥・いぬい=北西)櫓と天守二ノ門櫓などをつなぐ多門櫓で構成され、曲輪内には東蔵と西蔵を設けていました。この両蔵は、塩蔵と銃弾蔵(鉛蔵)だったと伝えられています。籠城に適した造りと言われる連立式天守ですから、2棟は特に大切な蔵だったと思われます。現在、東蔵はトイレ棟になり、西蔵跡は庭園になっています。

 その連立式天守は、四隅に天守や櫓が建てられ、かなり遠くまで四方を見渡せて、死角がありません。しかも天守と櫓を連結する多門櫓は、塀と違って屋根付きですから、風雨の影響を受けることはありません。いつでも櫓内を自由に移動でき、火縄銃も天候に左右されることなく使用できるのです。そのうえ天守曲輪で万が一、不測の事態が起きたとしても、乾櫓がにらみを利かせています。

 大天守へ通じる小天守の玄関は、優美な唐破風の大きな御殿を連想させる出入り口ですが、内部から大天守に続く出入口は、分厚い頑丈な扉で閉じられていました。この小天守内部に入った人の記録があります。昭和12(1937)年初春「まず立入禁止の小天守へものものしく第一歩を記す、無論電燈は無い。危ない足取りで二階へ(中略)何でもここは『とのい(宿直)の部屋』で、床板に狸の爪跡が生々しく残っている(以下略)」(『名城ものがたり』朝日新聞社刊)と当時国宝だった内部の様子を語っています。

 のち天守曲輪には本丸御殿が設けられ、天守と一体化した連立式天守に発展していきますので、細分化すれば、和歌山城は初期連立式天守ということになります。

写真=大天守からの天守曲輪。右が乾櫓、左は天守二ノ門櫓

(ニュース和歌山/2018年7月21日更新)