砂ノ丸から東へ石段を降りると鶴ノ渓に至ります。関ヶ原の合戦で功績を挙げた浅野幸長が、和歌山城に入って整備した場所の一つです。石段の南側の窪地は庭園跡と言われ、当時、この渓に鶴が舞い降りていたようで『紀伊国名所図会』に鶴の餌入れの石が描かれています。その石は、今も天守閣内に展示されています。

 季節になると、アジサイが咲く庭園跡から南側に傾斜を描くようにして石垣が高く積み上げられています。冬枯れの季節には、木々が茂ると見えにくい部分もよく見え、野面積みのその石垣は壮観にすら感じ取れます。

 この石垣を下から上へじっくりと眺めて下さい。積み方や石質の違いが見えてきます。結晶片岩(通称・青石)を加工せずに積み上げた野性味あふれる野面積みは、天端(上部)近くになると、整然と積まれているのがよく分かるでしょう。その周辺の石積みは、砂岩を加工して積み上げた「打ち込みはぎ」による積み方です。ここに時代の違いが見られます。その石垣には、浅野時代の特徴である刻印が多く見られます。

 浅野時代の和歌山城には、まだ南ノ丸も砂ノ丸もなく、この石垣の辺りが城の外壁部分にあたりました。そこで豊臣時代の石垣上部に、さらに石垣を積み上げて、防御壁を堅固にしたと考えられます。その時、鶴ノ渓庭園は堀の役割を担っていたかも知れません。

 鶴ノ渓の石垣にも見られますが、和歌山城の石垣には、自然の岩盤がむき出しになっているところが何カ所にも見られます。これは和歌山城の築城地である虎伏山が、岩山であることを示しています。秀吉は、この地盤が非常に硬い部分を見すえて築城の地として選んだのかも知れません。(水島大二・日本城郭史学会委員)

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