選抜高校野球の最中、名古屋市の出版社あるむから一冊の本が届きました。東海地区初の大学女子野球チームを率いた金城学院大名誉教授、竹内通夫さんの『女學生たちのプレーボール〜戦前期わが国女子野球小史』です。

 明治初期に米国から伝わった野球が発展するのは大正です。全国中等学校優勝野球大会など今日の高校野球への流れができ、国内初のプロチームもできました。女子向けの「インドア・ベースボール」「キッツン・ボール」も行われ、東海地方ではキッツン・ボール大会も開かれました。

 同書は和歌山の小史に光をあてます。和歌山中学が1921、22年と夏の全国中学野球大会に優勝し、その高揚の中、和歌山高等女学校、粉河高等女学校、橋本高等女学校に軟式野球部ができます。24年には大阪で日本女子オリンピック大会が開かれ、和歌山の2校を含む4校が対戦。決勝は和高女と粉河高女で、14対11で和高女が優勝しました。竹内さんは当時の選手からその模様を聞いています。

 大会の内容に周囲も好意的で、主審は「想像よりも遙かに見事」、選評では「爽快に打ち勇敢にボールを捕らえる」「和歌山の捕手の元気と好捕も全選手を明るい気持ちにおいた」と讃えられました。

 しかし、26年に県学務課から「野球は女子に不適切、不妊の恐れあり」と中止命令が出ます。女子野球の盛んな地域でその傾向が強く、野球より激しい競技でも禁止されないものもありました。竹内さんは「野球は男性のものとの考えが強く、女性が軟式野球をすることに社会的抵抗が強く働いたのでは」と見ます。

 わかやまスポーツ伝承館には和高女の主要選手の手記が残ります。選手は「何のスポーツでも見るよりは年齢、健康など条件が許すなら自分でやる方が何倍も楽しいと叫びたい」と記していました。竹内さんは「ジェンダーの問題やパワハラなど日本のスポーツに課題は多い。スポーツの『port』は港で、港から出る、日常を離れる意味がある。楽しく面白いとの原点を忘れてはいけない」と語ります。

 新しい時代の兆しが現れると、文化を背景にした「あるべき論」が顔を出します。しかし、女子野球が続いていたら戦後の野球ブームをへて花形になっていたかもしれません。生き生きとした力の発現を育てることが日本のスポーツ、社会に求められていると感じます。 (髙垣善信・ニュース和歌山主筆)

写真=わかやまスポーツ伝承館にある和高女の優勝メダル

(ニュース和歌山/2021年4月3日更新)