絵は江戸時代後期、小倉の光恩寺及び熊野古道の吐前王子・川端王子(和歌山市吐前・布施屋)付近の風景です。

 右側の大きな寺院は、天正十九(一五九一)年、津田監物算正に招かれた信誉上人が建立した浄土宗の光恩寺です。彼の父・算長は天文十三(一五四四)年、種子島に伝来した鉄砲を紀州へ持ち帰った吐前城主です。

 吐前は川辺と対向する紀の川の渡津集落で、絵図には「吐前」北側に吐前「王子」がえがかれています。現在、その痕跡はほとんど残っていませんが、かつては王子社の祠があったといいます。

 絵図上部、左右に連なる松並木は堤防上を走る大和街道で、その内側に「ほしや」集落がみえます。紀の川の流路・渡河点が変わると、吐前王子へは回らず、川端王子が設けられたようです。川端王子は中世にはなく、『紀伊続風土記』によると、初めは布施屋の西約七〇〇㍍にあり、のちに現在地へ移ったとされます。同王子は明治四十三(一九一〇)年、高積神社に合祀されましたが、その跡地には遥拝所として小祠が建てられ、石灯籠二基も残っています。

関西大学非常勤講師 額田雅裕

画=西村中和、彩色=芝田浩子

(ニュース和歌山/2023年4月8日更新)